第17話 お母さんの愛

文字数 4,941文字

突っ込んできた車はスピンして歩道に乗り上げ、会社のビルの一角に突っ込んだ。ビルの窓ガラスは粉々に砕けあたりに散乱した。はねられた母は後方に数十メートル飛ばされてアスファルトの上に横たわっていた。加奈は目の前で起った信じられない一連の出来事に数秒間動けなかった。



頭に真っ白なもやがかかり、心臓の鼓動が激しさを増す。やっと事態を把握して加奈は立ち上がり、母の方へ駆け出した。足取りももろく躓きそうになりながらも必死だった。母の側に来ると崩れるようにその場にしゃがみこんだ。



「お母さんっ・・・!」

母はお腹を強打したらしく、そこから血が溢れだし、依服を伝い地面に流れていた。口からも吐血していて目を閉じてその場にうずくまるようにして横たわっていた。

「お母さんっ、しっかりしてお母さんっ・・・。目を開けて。」

加奈は涙を流しながら、懸命に母に呼びかけた。



「か・・か・・な・・・。」

薄っすらと瞼を開いた母はぼやけた感じの瞳で、側にいる加奈を見て弱々しい切れ切れの声で言った。あの時、もし母が加奈を突き飛ばさなければ、今頃は加奈が車にはねられていた。母は加奈を命がけで庇ったのだ。



その結果、母がこんな酷い重症を負う事に・・・。まともに喋れないくらいくらいに母の体の状態は深刻だった。今起った出来事に、近所の住人達が気づいたのだろう。周囲の消えていた家々の明かりがつき、中から人々が出てきて集まりすぐに人だかりができた。



「これは大変だ、すぐに救急車を呼ばないと。」

やって来た一人の中年男性が状況を見るなりそう言って、電話しに行ってくれた。

「か・・な・・・怪我はない・・?」

自分のことよりも娘の無事を心配する母の言葉に加奈は大粒の涙を浮かべて、私は大丈夫だからと何度も大きく頷いた。

「そう・・よかっ・・た・・無事で・・。」



安心した表情を見せて笑い、苦しそうに母は声を出して言った。

「お母さんっ、もう喋らないでいいから・・・。しっかり、もう少ししたら救急車が来るからねっ。」

加奈は母の手を両手で強く握って励ますように言った。母は苦しそうにしながらも、薄っすらと微笑んでいた。遠くからサイレンの近づいてくる音がけたたましく夜空に響き渡って、聞こえていた。



母を乗せた救急車に、加奈も同乗しそのまま救急病院に送られることになった。病院に着くと担架に移され、病院内に運び込まれる母を追うように加奈も走ってついて行った。母を励ます言葉を懸命に何度もかけた。母は緊急治療室という所に運ばれ、加奈はその部屋の前で待機することになった。



暗い病院の廊下、部屋の入り口の上に手術中のランプが光っている。壁に椅子が備え付けられてあったが、気が狂いそうになるくらい母のことが心配でじっと座って待っていることなど出来なかった。どうしてこんなことになってしまったのだろう。



ついさっきまで加奈は母と一緒に何気ない日常の中にいた。それが一瞬の出来事で壊されようとしている。こんなことがなければ、今頃は家に帰宅していつものように母と晩御飯を作り、楽しく食事しているはずだった。それなのに・・・・自分に起っている出来事が信じられない。天国から地獄に突き落とされたような気分だった。手を胸の前で組んで祈るような思いだった。



「ああ、神様、どうかお母さんを救ってください、世界でたった一人の私のお母さんなんです。大切な家族なんです。そんな大切な存在を私から奪わないでください。他には何も望みません・・・どうか・・・どうかお願いします・・・・。」



どれ程の時間をそうして待っただろうか、実際はそれ程時間は過ぎていなかったかもしれないが、加奈には恐ろしく気が遠くなりそうなくらい長く感じられた。緑色に光っていた手術中のランプが消えた。加奈は息を飲み、入り口のドアを見つめた。ドアが開かれ、手術をした医者らしき、血のついた青い服を着た男性と同じく看護士の女性が出てきた。加奈は彼らに駆け寄り、夢中で聞いた。



「お母さんはっ・・お母さんの容態はどうなんですかっ・・無事なんですか・・っ。」

「君はあの人の娘さんだね・・。」

医者は言いにくそうに加奈に伝えた。



「残念だけれど・・この際だからはっきり言おう・・・・・。君のお母さんに可能な限り、治療を施した。けれど・・・思ったよりも重傷だ・・・もう・・。助かる見込みはほとんどないんだ・・・。」

「そ・・そんな・・・・。」



加奈は医者の言葉に脱力して崩れた。看護士が大丈夫と側に寄った。

「お願いします・・母を救ってください・・お願いします・・私の・・・たった一人の家族なんです・・・どうか・・。」

加奈は医者にすがるようにして泣きじゃくりながら頼み込んだが、言葉尻はしぼむようだった。

「残念だけれども・・君のお母さんは・・・もう・・。」



医者は顔を深刻そうに歪めて顔を加奈から逸らした。



気休めのような治療を終えた母は個室に移された。真っ白な壁が四方から囲む病室の中央に母が眠るベットが一つぽつんと置かれていた。母は人口呼吸器をつけられ、眠っている。心拍を計測する医療機械が母の心拍を波の形に描いている。その横で加奈は母の手を強く握りしめていた。



母は穏やかな表情で眠っていて加奈はじっと見つめていた。加奈は母の色白で細く柔らかな手に頬をくっつけて俯いた。嫌だ、母を失いたくない・・今はまだこの温かい手のぬくもりも失うことになるなんて・・いや・・。

「か・な・・?」

加奈はがばっと顔を上げて母を見た。薄っすらと瞼を上げてぼんやりと潤んだ瞳で加奈を見つめている。

「お母さん・・気がついた?」

加奈は母に顔を近づけて話しかけた。よかった、このままもう母は目を覚ますことがないまま、加奈の元からいなくなってしまうのではないかと思っていたから、加奈は弱々しいけれど安堵の笑顔を浮かべた。母は目を動かしここは?と聞いたので病院だよ、と加奈は言った。母は初め、ぼんやりしていたが事故にあったことを思い出したようだった。



「お母さん、大丈夫だよ。御医者さんが少し入院したらすぐに退院できるって。」

加奈は母を励ますために笑顔をつくって嘘を言った。うまく言えただろうか、こういう嘘をつくのは苦手だ。表情に無理が出て少しでも悲しみが滲み出たかもしれない。そんな加奈の演技を見破ってかどうかは分からないが、母は・・。お医者さんを呼んでくるから待っててね、努めて明るく言って病室を出て行こうとする加奈を引き止めた。



母の力のこもらない手が加奈の手を弱々しく摑んでいる。

「待って、加奈・・行かないで側にいて・・。」

でも、と困惑する加奈にお願い、と母は真剣な瞳で呟いた。



「・・お母さんね・・・もう・・・そんなに長くないと思うの・・・。」

母は少し顔を曇らせて胸を上下させて呼吸しながらゆっくりと言った。母の言葉には有無を言わせない真摯なものが感じられ加奈はベットの方に戻り、泣き出しそうになりながらも、母の手を握る力をこめて笑顔を崩さずに話した。



「何いってるのよ。そんなことあるわけないじゃない。死んじゃ駄目だよ。今度あの子と私とお母さんの三人で遊びに行く約束したでしょ。」

前向きな言葉とは裏腹に加奈の声は震えている。 



「そうね・・・でも・・加奈・・・・ごめんね・・・お母さん・・・約束を守れそうにないわ・・・お母さん加奈をおいていくことになると思うの。」

「お母さんっ、お願いだから・・・そんな悲しくなること言わないでっ。」

加奈は顔を歪めて一瞬にして目に涙が溢れ、母の顔がぼやけて見えずらくなった。



「もう助からない・・・お母さんの体のことだからよくわかるの・・・お父さんが死ぬ前に言っていたことが今になってようやくわかるわ・・・でも・・・加奈を・・最愛の娘を守って死ねるならお母さん本望よ・・・・・・?。」

母は弱々しく手を動かして加奈の頬を撫でた。そんな母の笑顔が、加奈の心に鋭い痛みを走らせる。お母さん・・もらす加奈の頬に涙がつたう。母は天井を見つめて静かに呟くように言った。



「お母さん、お父さんを看取ったけれど今度は、加奈に悲しい思いをさせてしまうわね・・・・・ごめんね・・。」

父を母が見送り、母を加奈が見送ることになるなんて、こんな残酷なことって・・・あっていいはずがない。父と母は愛し合っていた。母は加奈を、加奈は母を深く愛している・・・。それなのに・・・神様がこんなひどい仕打ちを加奈たちに与えるはずがない。ただ平凡でささやかなものを守りたかっただけなのだ。そんなものが奪い取られてしまうわけがない。 



「ああ・・・なんだかすごく眠くなってきたわ・・・・。」

「お母さんっ。」

 加奈はもう溢れる涙が止まらない。母の声は次第に小さくなり、瞼が少しづつと閉じようとしている。

「加奈・・いつでも加奈のこと・・・天国からお父さんと一緒に・・・・どんな時も見守っているからね・・・・・・・。」

母は優しい笑みを口元に浮かべていた。呼吸が大きくなり胸が上下する。



「お母さん・・・?お母さんっ!嫌だ、私を一人にしないで・・・置いていかないでっ・・・お母さんがいなくなったら私どうやって一人で生きていけばいいの・・?」

加奈は母の腕に顔を密着させて、どうしようもなく溢れる気持ちをもう抑えることができないというように母にすがって言った。泣き続ける加奈とは違い、母は穏やかな笑みを絶やさず、加奈をいとおしむようにその頬を撫でて言った。



「大丈夫・・・・・お母さんはいつも加奈のこと・・・見守って側にいるから・・・ね・・?。」

  母の言葉はもう既にこの世のものではないような響きがあった。死への予感がはっきりと加奈には感じられた。理屈では説明できない、漠然とそう思う。



最愛の母のことだから・・唯一の肉親だから・・今日まで片時もはなれることなく一緒の時を共に過ごしてきたからなのか・・子供であるがゆえ加奈の感性が鋭かったのか・・・つないだ手から生きる気のようなものが抜けていくような感覚・・。母の心の占めるほとんどの部分がもう加奈の知らない世界にむかっていたのかもしれない。



いくら拒んでも、いくら認めたくなくても、いくら母をこの世に留めようとしても、もう母を失うことは避けられない、絶対に変えることはできない運命なのだと悟った。加奈は涙を流しつづけ、しゃくりあげた。母は手を伸ばし涙を溢れさせた加奈の顔を撫でた。その手を加奈は強く握り返す。言いたいこと、話したいことがたくさんあるはずなのに、もう言葉にならず、母のことを呼び続けることしか出来ない。



「お母さん・・お母さんっ・・・・・お母さん・・・・。」

「か・・な・・お母さんとお父さんの子供に・・・生まれてきてくれてありがとうね・・お父さんがいなくなってからあなたと共に生きてきて・・・・お母さんとても幸せだったわ・・・愛してるわ・・加奈・・大好きよ・・・。」



母は目尻を下げて微笑み、穏やかにそう告げると瞼はゆっくりと、ほんとうにゆっくりと閉じられた。握りしめる母の腕に力が失われ、重力に従うようにベットにおりた。



呼吸する胸の動きが止んだ。心拍の波が一本の線になり、静かな病室にむなしく電子音を鳴り響かせていた。











「誰かっ誰か来て下さいっ!母を・・誰か・・誰でもいい・・母を助けて・・・。」

母の心臓が停止してから加奈は病室を抜け出し、そう叫んだ。医者と看護士たちが病室に駆け込んできて、電気ショック、心臓マッサージなど蘇生措置を行ったが、母が瞼を開けることはもう二度となかった。



あらゆる方法が全て失敗に終わった医者も看護士も沈痛な面持ちで立っている。永遠の眠りについた母は安らかな顔で眠っていた。加奈は母の側で呆然と生気が抜けたような虚ろな表情で母の顔を見つめている。



「・・日。午前0時三分後臨終です・・・。」

看護士の一人が腕時計を見て、死亡確認を悲壮感漂う顔で告げた。

「い・・や・・。」

加奈はよろよろとおぼつかない足取りで母の眠るベットに近づいていく。

「お母さん・・っいやーっ!」



加奈は永遠の眠りについた母に覆いかぶさり、しがみついて泣いた。鈍重な沈痛な空気がのしかかる様に漂う静かな薄暗い病室にいつまでも加奈の泣き叫ぶ声が続いていた。 
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