第44話 加奈とピアノ発表会

文字数 4,264文字

約一ヵ月後、ピアノ発表会の日はやってきた。これまで家ではおばや愛によってピアノを触らせてもらえなかったが、練習不充分が原因で、発表会で失敗し恥をかかされては困るということでしぶしぶピアノを弾いて練習することを許された。加奈は練習とはいえ、ピアノ演奏ができることがとても嬉しかった。加奈のピアノをはじめて聴いた時、おばと愛は意外そうな顔をして演奏を聴いていた。



おそらくもっと下手だと予想していたのではないだろうか。愛がつんとすまして言っていた。

「少しは弾けるみたいね。まあ、私の足元にも及ばないけど。」

地域の文化会館が発表会の場として使用され、加奈や愛の住んでいる地区のいくつかの小学校から参加する生徒達が数十人いた。参加者の面々は様々で下は一年生から上は六年生まで幅広かった。



小さい子は賞などはあまり関係なく幼くてつたない演奏でも一生懸命弾く姿を観衆の前で見てもらおうというものだった。年齢が幼い順に発表会が始まり、最後に近づくと演奏の技術の高い五年生や六年生が賞をとるために出てくる。加奈が聞いた話によると去年の発表会は四年生ながら五、六年生に大差をつけて愛が優勝して最優秀賞を獲得したらしい。



今回も愛が優勝すると皆は疑いなく冷静に予想していた。文化会館のよく催し物が行われるホールでは参加する子供たちの晴れ姿を見ようと父兄がたくさん押しかけて観客席を埋め尽くしていた。ホールの舞台にはグランドピアノが中央に置かれうす暗闇の中スポットライトに照らされて演奏者を待ち構えている。舞台の裏部屋では参加する小学生たちがそれぞれの面持ちで準備をしている。



小さい子に落ち着くように勇気付けている女性は母親だろうか。大きい子には同級生らしき応援しに来た子がしっかりねと励ましている。座り込んで腕をくみ額を伏せて精神を集中している子もいる。緊張で見るからに硬くなって震えている子もいる。愛は仲の良いクラスメイト三人(彼女たちも参加するようだが)に囲まれ笑顔で言葉を交わしている。



「今回も愛がぶっちぎりで優勝間違いなしね。」

「そりゃそうでしょ。愛に勝てる子なんてこの地域はおろか県内にもそうはいないわよ。」

彼女らが口々にそう言う中、愛はふふん、当然よ、というように勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「それに比べて加奈ちゃんって愛と一緒に住んでるから気の毒よね。愛と比べられてかわいそう。」

わざと少し離れたところにいる加奈に聞こえるようにして三人はくすくす笑った。舞台裏の壁にもたれかかり加奈は深呼吸をして心を静めるよう努めていた。



「しかし驚いたわね。加奈が発表会に出るって聞いた時は聞き間違いかと思ったわよ。」

神楽坂亜沙子は加奈の前に立って大げさに言った。加奈が発表会に出ることを決意し、そのことを学校で休み時間に彼女に打ち明けた時、いきなり言われたからなのか、予想通り目を丸くしていた。



「フフ、亜沙子ったら・・。私がこんな人前に進んで出るような子じゃないからでしょ。」

加奈はわざと頬を膨らまして怒った顔をして見せた。いつの間にか加奈は神楽坂のことを名前だけで呼ぶようになっていた。それだけ二人の親密さが深まった証拠かもしれない。やはり彼女を加奈の両親のお墓に連れて行った日のことが大きく影響しているようだった。お互いのことを知った、あの日以来二人はより仲良くなった気がしている。



「それもあるけれど、その前にピアノが弾けたっていうのが初耳だったから。教えてくれてたらもっと早くに聴かせて欲しかったのに。もう、水くさいわね。」

肘でつついてくる亜沙子に、片目を閉じ、小さく舌を覗かせて加奈はごめんねと詫びた。加奈がピアノを弾けることを知ると、是非聴かせてと亜沙子が言ったので、放課後学校の音楽室を使わせてもらい聴かせてあげた。



亜沙子はおばあちゃんと同様、すごく感動してくれて、加奈の演奏好きよ、これなら発表会に出るべきよと言ってくれた。友人にほめられ嬉しくもあり気恥ずかしくもあり加奈はありがとう、と照れていた。

「おばあちゃんがね、私のピアノほめてくれて発表会参加を勧めてくれたの。だから厳密に言うと私の意志からの行動じゃないんだけどね。」

「でも最終的に加奈は参加することを自分で決めたんでしょ。だったら自身もって堂々と演奏すればいいのよ。」



加奈の肩に手を置いて笑顔で言う亜沙子にそうね、ありがとう、と目を細めて加奈は頷いた。

「私ね、賞とかはどうでもいいの。うまく演奏しようとは思ってないんだ。私の心をこめた演奏を多くの人々に聴いてもらえるだけで、たとえ一人でも私の演奏が誰かの心にかすかでも響いてくれたら私、それだけで満足よ。」



亜沙子は加奈の頭を軽くぽんぽんとたたくと、穏やかな笑みを浮かべて言った。

「ふふふ・・加奈らしくていいよ。観客席から応援してるから、頑張ってね。」

加奈は頬を赤く染めてうん、と笑った。





審査委員や司会者、父兄の代表者の挨拶が済み司会者の進行で発表会は幕を開けた。小学一年生の不器用だが一生懸命に弾かれるピアノの演奏で始まった。演奏が終わるとたくさんの拍手が奏者に送られた。観客席からは立ち上がって拍手する者がおり、おそらく奏者の家族だと思われた。



発表会は順調に進み四年生の演奏が終わろうとしていた。いよいよ五年生の出番であり参加者の面々に緊張感が漂いだした。加奈も例外なく身がかたくなるのを感じていた。亜沙子の前では賞を意識しないで演奏すると言ったが、やはり人前に出るという事で緊張した。そんな中で愛だけが余裕の表情を浮かべていた。



四年生の演奏が終わり五年生の演奏が始まった。加奈は五年生の中ほどの順番の位置にいて加奈の前には愛が演奏することになっていた。優勝候補の愛の後に演奏することは正直プレッシャーになったが、加奈はどうしてこの発表会に出ようと思ったのか、おばあちゃんがどうして薦めてくれたかをもう一度目を閉じて思い出した。



愛の高度な完成された演奏に比べられてもかまわない、勝つことが目的じゃないから。ただ加奈は聴いてくれる人に少しでも共感して欲しいと思った。五年生数人の演奏が進みいよいよ愛が演奏するために裏舞裏から舞台中央に進み出た。



落ち着き払った物腰で静かに椅子に座り背をピシッと伸ばして愛は演奏を始めた。愛の演奏はすごかった。明らかに今までの奏者とはレベルが違っていた。演奏技術が群を抜いている。観客席からもただただ愛の精錬された演奏に感嘆のため息が漏れてくる雰囲気が加奈のいる舞台裏まではっきりと伝わってくる。演奏が終了すると盛大な拍手がホール全体を包み込んだ。



たくさんの観客が立ち上がって拍手喝采を舞台に向けて送っていた。一礼して愛が次の演奏のために待機している加奈の方に下がってくる。すれ違い様、愛は不敵に加奈に微笑んだ。お前とは核が違うのよと目で言われた気がした。愛が下がった後もなかなか拍手が鳴り止まず、加奈は舞台に向かうのを躊躇った。加奈は目を閉じ深く深呼吸をし、しばらく心を静めた。



  (私だけの演奏をしよう。私にしかできない演奏をしよう。)



  心の中で呪文のように静かにそう唱えた。瞼を開いた加奈は一歩また一歩舞台に踏み出す。高鳴る心臓の音がはっきりと加奈の耳に届いた。ライトに白く照らされたグランドピアノを見つめる。



ぼんやりとそこだけ浮き上がったように見える光景の中、いつの間にか椅子に誰かが座っていた。誰?白くぼやけて見えるその姿はすごく懐かしい気がした。





よく目を凝らすとそこには死んだはずの母が座っていた。大きく目を見開いて凝視すると母は優しく加奈に微笑みかけてゆっくりと白いもやのように消えていった。目をこすってみたがもうそこに母の姿はなく、奏者を待つ椅子しか存在しなかった。



今のは何だったんだろう。加奈が緊張で心細くなり動転した故に見えた幻だったのだろうか。それとも・・・・普通なら驚いて動揺するのかもしれないが加奈は不思議と気持ちが和らいだ。さっきまで緊張していたのが嘘のようにプレッシャーの何もかもがいつの間にか消えうせていた。



ここにあるのは自分とピアノだけのように感じられ、驚くほど集中力が研ぎ澄まされているのがはっきりとわかった。



奏者の待つ椅子に座り加奈は心の中でつぶやいた。



  ―お母さん、加奈の演奏を天国から聴いていてね。私、真心こめて弾くからー





  母との思い出がたくさん詰まった曲を加奈は演奏し始めた。演奏が始まるとあたりはしんと静まり返り真の沈黙に支配されたような気配に満ちた。観客が身動きひとつせず食い入るようにひとつも聞き漏らすまいと加奈の演奏を聴いている。



加奈は演奏する中で不思議な気持ちになった。まるで背中に翼が生え自由に大空を掛けていくように、心が軽く心地よい浮遊感に包まれて何者にも縛られず自由に演奏するような感覚を味わった。人々の心に加奈の奏でるメロディーが音もなくすっと届けられていくような手ごたえをはっきりと加奈は感じていた。



ただ多くの人々に聴かせ届けたいという想い、祈りが魔法のように叶えられたような気がした。加奈は演奏する曲の狭間にはっきりと母との幸せだった日々を確かに見た。母への想いがそのままメロディに乗せられ観客の心に届いていく。



そして遠く離れたもう会うことはできない母へ加奈の想いが天高く舞い上がって伝わっていくような気がした。演奏を終え加奈は立ち上がった。暗闇の中の観客席はしんと音もなく沈んでいる。



どうしたんだろう、演奏が不味かったんだろうかと加奈の心に不安が広がりかけたその次の瞬間、ホール全体を大きく揺さぶるようなものすごい拍手が沸き起こった。



加奈は一瞬何が起こったのかわからなくなり今頃になって心臓のどきどきが蘇えってきた。愛が演奏したときの拍手と負けるとも劣らない、いやそれ以上に感じられた。中には涙を流している人までいてびっくりした。



立ち上がっていない観客を探すのが困難なくらい、人々は立ち上がっていて、その中で加奈はぶすっとした表情を浮かべているおばの横で立ち上がって満面の笑顔で拍手するおばあちゃんを見つけた。目と目が合い、加奈は頬を紅潮させて微笑んだ。



おばあちゃん、加奈やったよ。心の中で加奈はそうつぶやいて小さく手を振った。おばあちゃんらがいる席から目を転じると、亜沙子も立って拍手を送ってくれているのが見えた。彼女も微笑んで頷いていた。惜しみなく賛辞のまなざしを送ってくれているのだろうか。加奈ははにかんで見せた。
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