第65話 さよならと蓉介の想い

文字数 4,342文字

白の側に駆け寄ってしゃがみこみ、真琴は白のその無残な様相を見てしばらく絶句し口を手で押さえた。

「ひどい・・・・どうしてこんなことに・・・。」

白は左のお腹辺りから血を流している。何かに噛み付かれたような見るからに深い傷穴ができていた。おそらく凶暴な野犬に襲われて怪我を負いここまで逃げてきたのではないだろうか。



「見つかったのか。」

彼が遅れてやってきて真琴の側に膝をついた。変わり果てた白の姿を目にして柿本も一瞬口をつぐんでから声を発した。

「これはひどい・・どこかの野犬に襲われたのか。まだ息は・・息はあるのか?」



白は薄っすらとどこか焦点の合っていない目を開けて、速い呼吸をして体を上下させている。

「まだ生きてるわ、早く、早く病院に、動物病院へ連れて行かなくちゃっ。」

白を抱き上げようとする真琴の手を彼は止めに入った。



「何するのよ、早く病院に連れて行かないと手遅れになってしまうわっ!」

非難のまなざしを彼に向けると、彼は苦い表情でゆっくりと首を左右に振った。

「駄目だ・・・残念だけど・・・・・もう助からない。」

「まだ生きてるのよ、医者に見せないとわからないじゃない。」



「多分今から病院に向かっている間に・・・・息を引き取るだろう・・・。」

「こんな時にふざけたこと言わないでっ!この子は死なない、死なせないわ!」



「わかるんだよ!」

彼の大声に真琴はびくりとした。彼は身を切られたように苦しげな表情をしていた。



「僕も昔猫を飼ってて、その死を看取ったから・・・・、病気で亡くなったんだけど・・死ぬ直前の状態を僕はよく覚えている。もうこの子に残された時間は少ない・・・ここで静かに僕らで白を見送ってやることしかできない・・・この子もそれを望んでいると思う。」





「そんな・・・・。」

真琴は彼の言葉に目を見開き瞬きもせず、絶望して言葉を失った。ゆっくりと真琴は手を白に差し出す。その手は小刻みに震えている。頭に手をかざして触れると白が弱々しく鳴いた。



細く開いた瞳が真琴を見つめている。そのつぶらな瞳を見た途端、どうしようもない感情が真琴の胸の内に溢れた。小さな鼻先に手をかざすと白は真琴の指を弱りきった動作で舐めた。彼も白を無言で優しく撫でると白はそれにこたえるようにか細い声で鳴いた。



小さな瞳が真琴と柿本を見つめている。やわらかいそのまなざしと指を何度も舐めてくるその行為はまるで、白が真琴と柿本に今まで面倒を見てもらった感謝、お礼を示しているかのように思えた。白自身も真琴たちとはこれが最後なんだと悟っているのだ。



白の呼吸が緩やかになってきた。上下する体もゆっくりになる。生命のほとばしり、一瞬の命の瞬き、最後の力を振り絞るように、白の尻尾が大きく膨れ上がった。切れ切れに最後の鳴き声を上げる。何か大事なものが、生気のようなものが白の体から抜けていくように真琴には見えた。



細く開いていた瞳がゆっくりと閉じていく。瞳に宿していた光がしぼんでいくように消えていった。

「白!白っ、嘘でしょ、ねえ、目を開けてよ・・・ねえ、白ったら!」

白の体を揺り動かす真琴の手を彼が止めようとした。





「・・・・真琴さん。」

「いやっ、あなたまで・・・・・あなたまで私を置いて行っちゃうの?ねえ、白・・・・・。」

「もう、いいよ、真琴さん・・寝かせてあげよう、そっとしておいてあげよう・・・。」

「でも・・・。」



目に溢れんばかりの涙をためて訴える真琴に、彼は目を強く閉じて首を左右に振った。

「そうしてあげないと・・・・白は天国に安心して行けないから・・・。」



彼のその辛く振り絞ったような重い言葉にようやく真琴は白から手を離した。魂が抜けてもまだ温かさの残った白を見つめる。

「うっ・・・し・・ろ・・。しろ・・・・・しろっ。」



真琴の両頬に二筋の透明な雫がつたった。それは後から後から溢れ出てきて止められなかった。真琴は嗚咽を漏らし始め、やがて声をあげて泣いた。ただ泣き続けた。彼はそんな真琴を抱えるようにその背中をいたわる様に擦っていた。





真琴は白の死を看取ってひとしきり涙を流して泣き止んでも、なかなかその場から動こうとしなかった。柿本もただ黙って真琴の側にいた。陽が完全に西の空に落ちて、あたりは夜の闇が徐々にその存在をあらわしはじめている。真琴は泣きはらして赤くなった目をして白に虚ろなまなざしを向けたままポツリと漏らすように話し始めた。



真琴は冷たくなった白の体をゆっくりと撫でて言った。



「私この子を見てると思うの。親猫に見捨てられて、まだこんなに小さくて大人になる前に死んでしまって・・・・いったいこの子は何のために生まれてきたんだろうって。人間もそうよ、どうして生まれてくるの、それは愛されるために生まれてくるっていう人がいるけど・・・」





蓉介は黙って真琴の言葉の続きを待っているようだった。



「私は違うと思う。愛されるために生まれてきたのであれば、どうして白は親猫に見捨てられたの?この世で誰にも愛されずに、愛に恵まれずに孤独に死んでいく人がいるのはどうして?愛をやっと手に入れた人が残酷な運命によって愛を失ってしまうのはどうして?大切な人を皆失ってしまう人がいるのはどうしてなの?誰にも愛されなくなった人間はどうなってしまうの?」



真琴は皮肉めいた口調でまるで他人事のように話した。

「・・・・きっと私が死んでしまっても悲しむ人なんて誰一人いないでしょう。誰にも気づかれずにただひっそりと一人孤独に死んでいくんだわ。私はこの世界には必要とされない存在・・いらない存在・・私は別に孤独が好きだから一人でもかまわないけど・・・一人孤独に死んでいくことに不満はないけど・・・。でもこの白は違うかもしれない。もし私がこの子をあの時助けずに見捨てていたら、この子も私と同じように一人寂しく死んでいく運命だったんじゃないかしら。」

真琴は淡々と続ける。



「あなたが前に言ったようにもしかしたらこの子が一人ぼっちで可哀想だから、この世界に必要とされないから、面倒を見ようと決めたのかもしれない。私は一人が平気だけど、誰にも愛されないなんてとても悲しいことだからせめて私だけでもこの子を大事にしてあげようって思っていたのかもしれない。」



真琴は孤独に苦痛を感じていないという事を断言していたが彼はそれをどう思っているだろうか。

「私がこの世界から消えていなくなっても世界は何事もなかったかのようにたんたんと無情に過ぎていくんでしょうね。悲しくはないけれど、少し虚しくはなるわ。私の人生は何だったんだろうかって・・・・。」



真琴の言葉が途切れ、しばし二人の間に沈黙が下りた。土手から見下ろせる住宅街の家々には既に明かりが灯され薄闇の風景を滲ませている。彼は遠くに視線を置いたまま言った。 



「この子は死ぬ直前まで君に救われていたんじゃないのかな。白の死を惜しむ人間が今ここに二人いるんだよ。それに・・・・・。真琴さんは自分が死んだら悲しむ人間は誰もいないって言ったけど・・」

真琴がはっと顔を上げようとした。

「僕は・・・君が死んだら悲しいな。」



今までじっと話を聞いていただけだった彼が信じられない言葉を発した。真琴は大きく目を見開いて彼の顔を凝視する。

「冗談・・・でしょう?」



二人の側を冷たい風が通り抜けて髪を揺るやかに揺らしていった。

「冗談に聞こえたかい?」

「嘘よ!そんな冗談で私をからかわないで・・!冗談でも言っていいことと悪いことがあるでしょ!」



そう叫んだ真琴が柿本の顔を見てはっとした。いつもの笑みが彼の顔から完全に消えていた。まっすぐ力のこもった瞳は真剣さをたたえ真琴の姿を据えている。こんな真摯な表情の彼を見たのは初めてだった。目の前にいるのがいつもの彼ではなかったので真琴は当惑した。



いつそうなったのか気付けば真琴は彼に抱きすくめられていた。彼の弾む心臓の鼓動音を間近に感じながら真琴は驚く間もなくその言葉を聞いた。







「君のことが好きだ。」







一瞬何を言われたのかわからずに真琴は頭の中が真っ白になってぼんやりとしていた。



「初めて会った時からずっと・・・ずっと君のことが好きだった。」



真琴を抱く腕に更に強く力がこもった。







「浅倉さんは・・・。」

抱きしめられながら、目を白黒させて真琴はつぶやいた。

「彼女の交際の申し出は、あの日君がいなくなった後、断ったよ。」





「どうして・・・?」

彼はなんの迷いも躊躇いもなくはっきりと言い切った。





「君が好きだからだよ。」





柿本に強く抱きしめられながら、その優しいぬくもりを感じ真琴は全身の力が抜けていき、心地よい安堵感が胸の内に広がっていつまでもこのままでいたいと思った。時間が止まればいいのにと。しかし、そんな安らぎもつかの間、真琴の脳裏に過去の思い出したくはない記憶の断片がよみがえった。



幼い頃に真琴を置いて家を出て行った時の母の後姿、御葬式で見た棺に入った永遠の眠りについた父の白くなった顔、今でも首に肌身離さずに身につけているこのペンダントをプレゼントしてくれた女性の真琴に向けられた優しいまなざし。



真琴の胸の内に苦く重いものが広がって、真琴は顔を歪めた。このまま彼に何もかもこの身を委ねてしまいたい、すがりつきたくなる気持ちを抑えて彼から体を引き離した。



「ごめんなさい、私、あなたとは付き合えないわ・・・・。」

真琴は俯いて苦しげにつぶやいた。

「どうして・・・?」

彼の声はとても静かだった。



「浅倉さんに聞いたでしょ、私の中学生の時のこと・・・私なんかと付き合ってもろくなことはないわよ。」

彼はため息をついて呆れたように言った。



「僕を見損なわないで欲しいな、あんな嘘を僕が信じるとでも思ったの?これでも人を見る目はあるつもりだよ。今まで君と数ヶ月接してきて浅倉さんが言った事が真実でないことぐらいわかるよ。君は見た目はすごく冷たい人間に見えるけれど、本当は心根の優しい人だって僕は知っているよ。」



真琴は自分の中で嬉しさがこみ上げてくるのがわかった。思わず泣きそうになるのをこらえて俯いた。彼は真琴のことを信頼してくれていた。周りの人間達は真琴を奇異の目で見て近づいてこなかったというのに。でもだからと言って彼の告白を受けるわけにはいかなかった。



「ありがとう・・・そういってくれて私とても嬉しいよ。でもやっぱりあなたとは付き合えない。」

「なぜ・・?何故なのか教えてよ・・。」

彼は眉根を寄せてとても悲しげな表情で真琴に聞いた。



「たとえ、付き合えない理由を言ったとしても柿本君は納得しないと思う。でもこれだけは言わせて。あなたの方に落ち度があるわけじゃない。私の勝手で一方的な事情で付き合えないの。だから・・ごめんなさい・・・。」

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