第3話 真琴のお父さん

文字数 2,433文字

父は母がいなくなったことに怒り、真琴に以前より一層激しくあたるようになった。

真琴は父と二人きりになるのが怖くて、父が起きている間家から逃げ出した。



このまま母を捜しに行ってしまおうかとも考えたが、どこに行けばいいかもわからず結局に家に戻った。それにもしかしたら母は気が変わって帰ってくるかもしれないという微かな希望を捨てられないでいた。



戻ってきた母がごめんね真琴、お母さんが悪かったわ、もうどこにも行ったりしないから・・・そういって抱きしめてくれることを願った。

ある日、真琴が父が暴れて家から逃げ出し、ほとぼりが冷めた頃を見計らって家に帰ると父がいなかった。陽が沈んで外は真っ暗だというのに家の中は明かりもつけられず、カーテンもかかっていなかった。



電気をつけると床に空いたお酒の瓶が転がっていた。お酒がなくなったので買いに行ったのだろうと真琴は思った。カーテンを閉めようとした時、外から救急車がやってくる時のあのけたたましい音が聞こえた。



音は次第に大きくなりこの街まで近づいてきた。ふいに音が止んで、近所の人々がざわめきだす様子が家の中にいる真琴にもわかった。近くで誰かが事故にでもあったんだろうかと真琴は思って、家を出て見に行こうとした。



街を抜けて国道があらわれるところで、救急車が停車していて赤いランプが点滅して回り、夜の闇の中を照らしている。人だかりが見えて真琴は駆け寄っていった。野次馬たちの間を抜けて一番前に顔を出した。



最初に目に飛び込んできたのは白い買い物袋だった。地面には袋から粉々に砕けたガラスが飛び出してぶちまけられたようになっていて、ガラスと共に地面は濡れていた。



そして今救急隊員二人が事故にあったであろう人物を担架に乗せて運びだそうとしていた。

救急隊員たちが前を通る時、真琴は担架に乗せられた人物の顔を見て息が止まりそうになった。



その顔を瞳に映した途端、瞳孔を見開き、体が凍ったように動けなかった。

真琴のよく知っている人間だったからだ。



救急車に乗せられていったのは他の誰でもない真琴の父だった。





父は病院に運ばれ、緊急治療を受けたが助からなかった。

お酒を買いに行った父は酔いも覚めやらない足取りもおぼつかない状態だった。

買い物袋を手に提げた父は国道をふらつきながら歩いて、そのまま道路に出たところを後ろから来た乗用車にはねられた。



病院で治療中に息を引き取った。

母に続き、死別という形で父があっけなく真琴の元から去っていった。父は酒に溺れ、真琴に暴力を振るうような人間でも真琴の家族であることに代わりはなかった。



この日を境に真琴は一人きりになってしまった。

家に帰っても真琴の帰りを待つものはこれで誰一人いなくなってしまった。





父の葬式が行われた際に、初めて母が真琴と父を捨てて失踪したことが親類たちに明らかになった。一人残された真琴の処遇をどうするかが親類たちによって話されていた。

真琴は棺に入れられた父の白く生気の抜けた顔を見つめて父との思い出を思い返していた。

父が失業して酒に溺れ、母や真琴に暴力を振るうようになる前の父との思い出を。



元々、父はとても真面目な人で家族のためにと一生懸命に働いていた。お酒も飲まず、煙草も吸わず、ましてギャンブルにも手を出さなかった。いつも母と真琴に優しくて愛情を注いでくれて理想的な父親だったかもしれない。



大きな温かい手でよく真琴の頭を撫でてくれた。収入は多くなく貧しかったけれども、母も真琴も不満に思うことはなかった。そこにはささやかだけれども温かな家庭が確かにあった。

真琴の誕生日やクリスマスには豪勢ではないが、パーティーを開いてくれた父。その時の幸せそうな笑顔が忘れられない。だが父が会社から理不尽にリストラされたことが全ての歯車を狂わせた。



再就職先を探すための就職活動が実らず、次第にあせる父。ついには投げやりになって酒に溺れていって地獄のような日々が始まったいた。しかし今真琴は不思議なことに、酔って暴力を振るった父よりも優しかった頃の父の姿が自然と鮮明に思い出された。



今まで父に殴られ恐怖し、いなくなってしまえばいいと怒りを抱いたこともあったが、亡くなってしまった父を目の前にして、真琴はそんな気持ちを微塵も感じなくなっていてどこかに吹き飛んでいた。元々、父を嫌いだったわけじゃない。



それは母も同じことだったろう。胸の内に、優しかった頃の父の映像がはっきりと生々しいほどに迫り、真琴は苦しくなった。目に映る横たわった父の顔が優しかった頃の父の笑顔と重なって歪む。歪みは増してもう父の顔を見ることは出来なくなってしまった。



声を上げて泣いた。真琴はこの時、父に暴力を振るわれたことを、父のことを許したのかもしれない。それは死んでしまってもうこの世にいないからなのか、最初は幸せだったのに、社会の荒波に翻弄されて壊れていった父が死に、かわいそうだと同情したからなのか・・・・。



ただ心には父と母と真琴の楽しかった頃の三人の生活していた光景が眩しく満ちて、真琴を悲しみと孤独の淵に突き落としていった。母に見放され、ここで真琴にまで死を惜しまれずに死んでいく父がかわいそうに思えた。せめてこの世で一人だけでも、たった一人の家族である真琴だけでも父のために涙を流してあげたかったのかもしれない。



葬儀の後、真琴の身の振りようをどうするか親族は話あって決めたようだった。

親族たちは真琴のことを厄介者を預かるのは御免被るという態度をとり、真琴を施設に預ける事に決めた。



この世で家族を失い、一人きりになって茫然自失になっている真琴の意見など聞かれることも尊重されることもなく、施設への手続きは淡々と進められていった。最愛の母に裏切られ、父は亡くなり真琴はもうどうにでもなればいいと自暴自棄になっていた。



目の前の未来は真っ暗でこれからはいいことなど起こるはずはないと、

わずか齢十歳の小さな心で自らの人生を絶望してあきらめていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み