第45話 ピアノ発表会の意外な結末

文字数 5,009文字

発表会は順調に進み六年生の演奏が全て済み、いよいよ審査員の選考が始まった。ホールの外の通路や観客席では参加した生徒とその家族らが演奏の感想などを語らって結果発表を待っていた。よくがんばったね、いい演奏だったよなどほめ称える声がちらほらと聞こえた。加奈と愛はというとおばあちゃんとおばのいる席で一緒に結果を待っていた。加奈の隣には亜沙子がいた。おばあちゃんと亜沙子は初めて言葉を交わしたようだった。



「まあまあ、あなたが神楽坂亜沙子ちゃんね、加奈ちゃんからよくあなたのこと聞いてるわよ。いつも加奈ちゃん、ほんとに嬉しそうにあなたのこと話すものだから、よっぽど大好きなんだね。これからも加奈ちゃんと仲良くしてあげてね。」



おばあちゃんの言葉に加奈は赤面しっぱなしだった。もう、おばあちゃんったら、とおばあちゃんの着物の袖をつつっと引っ張った。ほんとのことなんだから照れなくてもいいじゃないかい、とおばあちゃんは加奈を笑ってなだめた。



「加奈ちゃんにはこちらこそ楽しくさせてもらってます。」

亜沙子は普段の済ました顔でなく、愛想のよい笑顔でそう言った。それからも会話を交わし、おばあちゃんは亜沙子のことをとても気に入った様子だった。



「良い子だね、加奈ちゃんのお友達がこんな子なら何も心配することはないわね、よかった。」

おばあちゃんは満足そうに言った。おばあちゃん・・・と呟いたきり加奈は言葉を失った。おばあちゃんがそこまで赤の他人に等しい加奈のことを気にかけてくれていたなんて思わなかったから。加奈は胸がきゅんとせつなくなって、でも嬉しくて・・・。



愛は亜沙子が近くにいるので居心地が悪そうだった。授業参観日での一件のためか、おばも明らかに不快そうな顔をこちらに向けていた。亜沙子自身はそんなおばや愛の態度に気がついているだろうが、まったく目を向けず無視していた。おばあちゃんだけに心を許しているように見えた。



「加奈ちゃん、とってもすばらしい演奏だったよ。おばあちゃん思わず泣きそうになちゃったよ。」

目頭を押さえておばあちゃんは手をぎゅっと握って加奈をほめてくれた。思わず加奈もぐっときて涙がこぼれそうになるのをこらえて、ありがとうって言った。横で黙って座っているおばと愛は面白くなさそうな顔をしている。



「学校で聴かせてもらった演奏より良かったんじゃない?加奈って本番に強いタイプなのかしらね、意外よね。聴いててすごく心地よかったよ。これは加奈のこと見直さなくちゃね。」

亜沙子が妙に誇らしげな顔でそう言った。むっとして加奈は亜沙子を肘でつついた。

「亜沙子は私のこと、本番で失敗するタイプと思ってたってわけ?」

おばあちゃんと亜沙子が声を上げて笑った。



「でも本当に加奈の演奏聴き惚れちゃったわ。こんな経験初めて。よくがんばったね。」

亜沙子がまじめな顔で言い直して加奈のことをほめてくれた。加奈はこの上なく幸福な気持ちになった。大切な人たちに加奈が演奏したお母さんとの思い出の曲を聴いてもらえて本当に良かった、あの時、演奏する前に天国にいる母が加奈の緊張や不安を和らげてくれなければこんなに満足のいく演奏はできなかったかもしれなかった。



ありがとう、お母さん、加奈は今は奏者も誰もいない舞台上のグランドピアノを見つめて、一人心の中でそう呟いた。





審査の結果が出たらしくホールの舞台に審査員と司会者が姿を現した。司会者の指示で参加者の中から表彰で呼ばれた者は舞台に上がってくるように、それまでは観客席で待機するように、ということになった。舞台にあったグランドピアノと椅子が裏舞台に運ばれて代わりに表彰を行うための机がおかれ、その上にマイクが設置されていた。



表彰される賞は最優秀賞が一人、優秀賞が三人、準優秀賞が三人、そして努力賞、特別賞がそれぞれ一人選ばれることが決まっていた。



「それでは皆さまよろしいでしょうか。ただいまより第○○年度○○地区主催ピアノ発表会の選考結果を発表致します。」

ホールの観客席側の照明が消され、暗闇に包まれる中参加者や観客の息をのむ音が聞こえてきそうな程にしんとあたりは静まり返り、沈黙がホールを支配した。舞台に立つ司会者のみに光が集まり、観客の視線が司会者に集中する。結果は一番下の賞から順番に発表された。



「特別賞受賞者はー。」

名を呼ばれた生徒が拍手の渦巻く中、舞台に上がっていく姿を加奈は目で追っていた。

表彰状を審査員から受け取り、輝くように嬉しそうに笑う生徒の笑顔が印象に残った。進行は努力賞、準優秀賞の発表へと進んでいく。その度に観客の惜しみない拍手が表彰者に送られ、加奈も目を細めて拍手を送った。



ふいに加奈が座っているところから近いところに座っていた少女が司会者に名を呼ばれて、やったという喜びの笑顔を一緒に座っていたお母さんらしき女性に向けてから舞台に向かう様子を見ていた。表彰状をうれしそうに携えて観客席に待つ母の元へその少女が戻ってきた。母に頭を撫でられてほめられているであろう少女の笑顔は加奈にはとてもまぶしく見えた。その光景を見た瞬間、加奈の母が加奈の頭を撫でて微笑んでいる光景が目に浮かび、胸の奥がぐっと締め付けられるような感覚になった。



苦しい、お母さんがもし生きていてここに座っていたなら加奈が小さな賞でもとれたなら、あの少女の母親ように加奈のことをほめてくれただろう。うらやましさで胸が張り裂けそうになって加奈は唇を噛み黙って俯くことしかできなかった。そんな加奈の様子をさっきからじっと見ていたんだろうか、おばあちゃんが加奈の肩に腕を回してきてそっと抱きかかえるようにただ黙って背中を撫でてくれた。



おばあちゃんの顔を見ると悲しげな顔にいつもの笑顔をたたえて加奈を優しい目で見つめていた。加奈は遠慮なくおばあちゃんの肩に頭をあずけて寄り添った。おばあちゃんの手はとても温かくて加奈の悲しみをゆっくりと溶かしていくような気がした。気持ちが安らいでくる中でぼんやりと発表を聞いている。準優秀賞の発表が終わり、優秀賞の発表にさしかかろうとしていた。



加奈は最優秀賞は無理でも運よく優秀賞に選ばれないかなと小さな希望を持って優秀者発表を聞いた。発表される三人のうち二人が加奈と愛のクラスメイトと、もう一人は別の小学校の六年生が選ばれた。あと一人、加奈は選ばれないかなとぜいたくと思う期待をこめた。



「残る一人、優秀者はー・・・・」

司会者が少し勿体をつけるように間を空けた。まわりの観客から、今年も中村愛ちゃんが最優秀賞で決まりね、などとひそひそ声が聞こえてきていた。そんな声を驚嘆の声に一瞬で変える出来事が起こった。





「最後の優秀賞は、中村愛さんです!」



司会者の予想外の発表に観客達のどよめきがホール全体に怒涛のように駆け巡った。

「うそー愛ちゃんが最優秀賞逃すなんて信じられない。」

「ということは他に愛ちゃん以上に審査員をうならせた参加者がいるってことか。」



たくさんの驚きの声があちこちで上がった。それだけ愛はこのピアノ発表会では有名であり注目されていたのである。そんな中で一番の驚きを隠せずにただ固まっていたのは愛だった。そんな馬鹿な、こんなことがあるわけがないというようにまだ現実として受け止められないようで、ふらふらと立ち上がって舞台に向かう愛の後姿を加奈は見送った。



おばは座ったままおろおろと周囲を見ていた。加奈も目を見開いて驚いていた。あの愛が最優秀賞を逃すなんて・今回も優勝間違いなしと言われていた愛が・・・それにあの卓越した演奏技術を持つ愛が優秀賞ならば加奈は賞をとれるわけがないと落胆した。



側にいるおばあちゃんを見ると特に驚いた表情はしていなかった。明らかに周囲の人達と反応が違う。まるでこうなることは最初からわかっていたというような顔をしている風に加奈には見えた。

「ではいよいよ最優秀賞の発表を行います。」



司会者が声を少々大きくして言った。では誰が最優秀賞者なんだろうか、加奈が他の奏者の演奏を聴いた限り、愛の演奏以上に際立つような演奏をする者は見当たらなかったはずだが・・・。



「最優秀賞に輝いたのはーーーーーー・・・・・・」



司会者が言う中、ホール全体が息を殺して沈黙した。愛でないなら誰なのかと、人々がいっせいに耳を集中して舞台に傾けている空気がひしひしと伝わってきた。この間が観客等にはとても長く永遠のように感じられたのではないだろうか。







「最優秀者はーーーー藤島加奈さんです!」







加奈は自分の名前が呼ばれてもすぐに反応することができなかった。え?と口を開けてぽかんとしていた。こんな自分が最優秀賞に輝くなんて絶対にあり得ないことだと心の深い部分で確信していたからだ。ホールにどよめきの波が走る。予想外の番狂わせに観客席は大いに沸きあがった。



名を呼ばれてからも頭の中が真っ白になってぼーっとなっていて、座っているとおばあちゃんが加奈の肩を揺すった。それから亜沙子も加奈すごいよ!やったねと普段の彼女には珍しくはしゃいでいた。目の前で一体何が起こっているのかわからなかった。

「ほら、加奈ちゃん最優秀賞受賞者はあなたよ。」

「私が・・・最優秀者・・・・・?」



おばあちゃんは大きく頷く。さあ、賞状をもらっておいでと笑顔で加奈を立ち上がらせた。まだ信じられない加奈は半信半疑な気持ちで舞台への通路を歩いていく。舞台に上がり審査員の待つ机の前に立ち、賞状をうけっ取った。加奈は思わず審査員に聞いた。



「あ、あの!・・・・どうして私なんかが・・その・・・優勝者なんですか?」

目を丸くしてから顔を微笑ませ、立派そうな白い髭を蓄えた審査員が加奈に言った。



「あなたの演奏はとても素晴らしかったですよ。長年いろんな人のピアノを聴いてきましたが久しぶりに技術だけじゃない心のこもった演奏を聴かせてもらいました。本当にありがとう。」

にっこりと審査員は笑い加奈と握手を交わした。おばあちゃんに初めてピアノを聴いてもらった時におばあちゃんが加奈に言っていたことを思い出した。



「ただうまければそれでいいっていうものじゃないんだよ。いくら上手でも聞いてる人々の心に何も響くものがなければ人を感動させることはできないんだよ。逆に弾く技術が未熟でも心がこもっていて、人に訴えかけるものがあれば人を惹きつけて人の心に深く印象に残るのよ。」



審査委員の言った言葉がおばあちゃんの言葉に重なって聞こえた。観客席からは盛大な拍手が加奈に送られた。振り返って深く一礼してから加奈は顔を真っ赤にして観客席に戻った。笑顔のおばあちゃんの横に座っているおばと愛はこれまで以上の険しい顔で加奈を睨みすえていた。目と目があった瞬間、体が縮こまり背筋が急に寒くなるのを感じた。



そんなおばたちをよそにおばあちゃんと亜沙子が加奈の優勝をとても喜んでくれた。

「加奈すごいよ。本命の愛を抑えて最優秀賞をとるなんて。これで自信ついたでしょ?胸をはって加奈のお母さんに報告できるわね。おめでとう。」



「加奈ちゃんが優勝で本当に良かった。おばあちゃん嬉しいよ。改めて優勝おめでとう加奈ちゃん。素敵な演奏ありがとうね。」

おばあちゃんも亜沙子も心から祝福してくれた。

「ありがとう。おばあちゃん、亜沙子。」



微笑んで細めた目尻から一つの雫が落ちた。あれ、嬉しいはずなのに涙が・・・。後から後から溢れ出てきて加奈は止めることができなかった。亜沙子が加奈の手をぎゅっと握ってくれた。そしておばあちゃんが加奈を抱きしめて優しく背中をさすって語った。



「天国にいるお母さんにもきっとあなたの演奏が届いたはずよ。おそらくとても喜んでくれているわね。」

おばあちゃんの言葉に演奏前のことを思い出した。さっき舞台で見た母は幻でもなんでもなくて、もしかしたら加奈のピアノを聴きに天国から来てくれたんではないだろうか。不思議とそう思えてならなかった。涙ぐんで加奈は微笑んだ。もしかしておばあちゃんはこうなることを知ってて加奈をこの発表会に参加させたのではないのか。



「やっぱり親子だねえ・・。」



おばあちゃんは加奈の頭を優しく撫でてそうつぶやいた。発表会が全て終了した後、加奈の近くに座っていた見知らぬ人々が口々に、おめでとう、良かったわよ、感動したわと加奈に惜しみない賛辞を送ってホールを後にしていった。

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