第18話 旅立つお母さん

文字数 4,072文字

加奈がいくら呼びかけても母はもう答えてくれない。

あの優しく穏やかな笑顔を加奈に向けてくれることはもう二度とない・・・。

柔らかな腕で加奈を温かく抱きしめてくれることも、そのぬくもりを感じることも・・もうこの先絶対にない・・・。



楽しくお喋りしてご飯を食べることも・・・。聴いていれば安らかな気持ちになれる母のピアノを聴くことも・・・。ピアノを一緒に演奏することも・・・。買い物帰りに母と手をつないで愉快な気持ちで歩くことも・・・・。誕生日を祝ってくれることも・・・。



これから先の未来にも当然のようにあるはずだったものが全て暗闇に閉ざされた。加奈の未来の風景にはもう母の姿は存在しない。母がいるのは過去の思い出の中にだけ。加奈の中の世界を見る視点にぽっかりと大きな黒い穴が開いた。加奈の中で何かが切れた。ぷつんと切れた。それは世界と加奈を唯一つなぎとめていたものかもしれない。





このことは後から知ったことである。母をはねた車の運転手は若いドライバーだった。自らの運転に過信して、ひどく荒っぽい運転をしていたらしい。制限速度を大幅にオーバーして国道を走っている所をパトカーに発見され追われたようだ。そのドライバーはつかるまいと更にスピードを飛ばし逃走した。パトカーはこれ以上の深追いは危険で事故につながると判断し途中で、追走をあきらめたのだがドライバーは後ろから追ってくるパトカーが見えなくなっても、まだ追われているかもしれないと切迫感を持ち、恐れ、逃走し続けた。



追われる事への焦燥感、あせりに支配され平常心を失ったドライバーは正常な運転が出来なくなり・・その結果・・・母をはねることになってしまった。



ビルに車を突っ込ませたそのドライバーは即死だったらしい。加奈はそのドライバーが憎かった。どうしようもない程に・・・。加奈の愛する母を一瞬にして奪ったのだ。だが、もうこの世にいない。加奈から唯一の家族である母を奪い、そのままこの世を去ってしまった。怒りの持って行きようがなく、加奈の心はどこでもない宙に浮いたような心もとない深刻な状態になってしまった。



  

こんなことになるなら加奈も車にはねられて母と一緒に死んだほうが良かった・・・これから一人孤独に生きていく人生に思いを巡らせると嘘でも冗談でもなく・・本気でそう思ったのだ。





母が亡くなって、翌日の夜にお通夜が行われた。その日は雨がしとしとと降り湿った空気が漂っていた。加奈は学校の制服を着て受付の所で来てくれた人達に頭を下げていた。加奈は昨晩一睡もできなかった。母を失った衝撃があまりにも大きく、一晩中寝床で涙を流し続けたため、目が真っ赤にはれ、潤みがほとんどなくなっている。



これ以上は涙がでないのではないかと思っても、棺の中で眠る母を見つめるたびに、加奈の中の水分がなくなってしまうのではないかというくらい、枯れることなく涙が溢れた。加奈には父方と母方の祖父母がいない。既にどちらとも亡くなっている。



身近な親戚もいなかった。だから、幼い加奈の代わりに、近所のおばさんたちや、母と親しかった人達が通夜をとりもってくれた。通夜に来てくれた人の中には、母が働いていた会社の同僚の人達、そしてピアノ教室の先生方、母に演奏指導してもらっていた子供達、その保護者であるお母さん等などだった。



どの人も、真っ白な棺の中で眠る母を見るとひどく悲しんでいて心から母の死を惜しむように目にハンカチを当てている光景が目立った。皆、一人残された加奈のことを気の毒がって、声をかけてくれたり、頭を撫でたりと慰めてくれた。加奈は改めて母の存在の大きさに気づかされるのだった。



どんな人にも分け隔てなく親切で、そこにいるだけで皆の気持ちを和ませてくれた母。そんな母を誇りに思えたが、悲しい気持ちを癒すことにはならなかった。

茫然自失でこの時のことをよく覚えていない。





通夜の夜が明けた日には母の御葬式が午前中から行われた。天気は昨夜の雨などなかったかのように快晴だった。雲ひとつない青空に太陽が高く上って陽光を地上に降り注いでいる。御葬式には通夜ではいなかった、加奈にとっては遠い親戚にあたる人達が何人か参列者の中にいた。血のつながりは全くなく加奈は一度も会った事もない人達だった。



母の葬儀が行われる中、その会ったことも無い遠い親戚らしき人々が加奈の処遇をどうするか、誰が引き取るかとまるで責任の擦り付け合いのような会話が式場の後ろの方で行われていた。



どの人も面倒ごとを引き受けるのは御免といった感じで話をしていた。しかしそれ以前に、どうしてわざわざこんな他人同然の葬式に来なければいけないのかといった感情が皆の表情や態度に滲み出ている。加奈は手に生前の母の写った遺影を持ち、御葬式に来てくれた人に頭を下げていた。



陰を落とした沈んだ表情で小さな口元をきゅっと結び、時折涙ぐんだ。これから加奈はどうなってしまうのか。一人ぼっちでまったく先が見えない不安と、母を失ったどうしようもない悲しみによる放心状態で加奈の心はいっぱいに膨れ上がっていた。



「私のところは駄目よ、家のローンがまだ残っているし子供たちの教育費がばかにならないんだから。」

「俺の所は家が狭いから無理だな、第一、遠い親戚ってだけでどうしてまったく知らないガキの面倒を見なくちゃならないんだ。」

「どこも引き取らないんなら仕方ないな。じゃあ、施設にいれればいいじゃないか。」

礼服を着た中年の男性の一人がそう言うと他の人々も皆頷いた。そんな風に親戚達の話がまとまりかけた時、それに反対する一つの声があがった。



「私達が引き取りましょう。」

親戚達は驚きの声を漏らす。加奈も顔を上げてその声の主を見た。親戚達の中でひとまわり背が小さく、目尻を下げてにこやかな笑顔をたたえた一人の老女だった。



「ちょっとおばあちゃん!何言い出すのよ。」

老女の側にいた三十歳後半くらいだろうか、女性が動揺したような声をあげた。しかし老女は笑顔を崩すことなく構わずに続ける。



「いいじゃないかい、家族が増えて賑やかになることだし、それにあの子は今唯一の肉親だった母親を亡くして独りぼっちで心細いはずだよ。誰かが見守ってあげなくちゃかわいそうじゃないか。見てあげられる大人が見てあげなくちゃ。」



ちがうかい?と老女は皆の顔を見渡した。誰も反論するものはいなかった。老女の言葉に加奈を施設に入れてはどうかと提案した男性も反対の声をあげることもなく、しぶしぶといった感じで黙ったままだった。加奈は彼らのやり取りを少し離れた所でじっと聞いていた。老女の一言で話し合いの流れが一変してしまった。



子供心に加奈は施設に入れられることはなくなったとわかったが、一体どんな人達に引き取られるのだろうという不安が湧き上がった。人柄のよさそうな老女を除いて親戚達は御世辞にもあまりいい人そうには見えなかった。そんな人々とうまく生活していくことが出来るのだろうか。とても歓迎されているようには感じられないのに・・。これから辛く苦しい日々が訪れるかもしれないという予感の前に、加奈は途方にくれていた。



これからどのように生きていけばいいというのだろう。加奈の希望のすべての源であった母。その母を失ったのだ。明るく幸せな将来のことなんて描けるはずもなかった。世界の中心は母が欠けてもはや中心ではなくなっていた。







葬儀は進み、出棺する段になって加奈は母との最後の別れの時を迎えることになった。多くの人々が母の棺に供花をたむけてくれた。遠い親戚の人達以外は皆母の死を惜しんで泣いている。その中には加奈を引き取ろうと言ってくれたおばあちゃんがいて彼女も悲しみの表情を表して、花を丁寧に母に添えてくれていた。加奈は皆が別れを済ませても、なかなか棺から離れることができず、ずっと泣いていた。

「お母さん・・・。天国に行ってもずっと私のこと見守っていてね・・・。」

母は安らかな寝顔で横たわっている。加奈が母の顔にそっと手を触れるとひんやり冷たく、そのことが一層加奈を悲しみの淵に沈めていった。



もうこれが最後、母の顔を見ることはできない・・加奈は別れがたく、皆にもうそろそろ、と棺から離されようとしたが加奈は嫌だ、と棺に張り付いたままだった。周囲の大人たちは加奈の気持ちもわかるので強引なことができず困惑顔でいると、加奈の肩にそっと手が置かれた。泣き顔で振り返ると、あのおばあちゃんだった。



「加奈ちゃん、お母さんを天国に行かせてあげよう?加奈ちゃんが引き止めているとお母さん安心して天国に行けないから、ね?」

穏やかにそう言うと加奈は悲しみの形に顔を歪めて小さく頷いた。おばあちゃんはそんな加奈の肩を抱いていい子だね、と頭を撫でた。その優しすぎるまなざしに加奈は身を預けた。おばあちゃんに抱かれながら加奈は棺に蓋がされるのを、涙を流しながらじっと見守った。母の顔をこの目に焼き付けて・・・加奈は呟いた。



「さよなら・・・お母さん・・・・。」

加奈の心を察してか、おばあちゃんは加奈の肩を強く抱いてくれた。





母は火葬され、その身はこの地上から姿を消した。変わり果てた母の姿に加奈は泣きながら、母の遺骨を拾った。加奈一人では大変なので、加奈に断ったうえで、母と特に親しかった女の人が二人、一緒に拾ってくれた。後、おばあちゃんも私も拾わせてくれない、と頼んできたので加奈はお願いした。他の遠い親戚達はこの場に居合わせるのを遠慮した。加奈もその方がよかった。



母を慕ってくれていない人達に母の遺骨を拾って欲しくはなかった。母の遺骨は骨壷に納められ白木の箱に入れられた。親戚以外の人々は既に式場を後にした。皆、別れ際に加奈にしっかりね、辛いでしょうけれどなどと声をかけて帰路についていった。



残った親戚達と母の遺骨を持った加奈は車で移動しすぐ近くにあるお寺に向かった。その寺にはお墓があり、加奈の父親が眠っていた。加奈はここでも母の遺骨を手放しがたかったが、そこに父と共に母は納められた。
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