第68話 真琴の本当の気持ち

文字数 4,182文字

「私が施設に暮らしてるのは知ってるだろうからわかるだろうけど・・私両親がいないのよ。」

真琴の告白に彼は少し驚いた顔をして見せたが、すぐに真琴が今日ここに来て話そうとしていた重要な話だと悟り、うん、と頷いて先を促した。



「最初はとても温かな理想的な家族だったのよ。家は貧しかったけど父も母も私をとても愛してくれて私は幸せだった。母は優しくて手をつないでよく買い物に出かけた。父は誠実な人で家族をとても大事にしていたわ。自分が家族を守るんだって。仕事を終えて遊びにも行かずに、家にまっすぐに帰って来て母や私と過ごす時間をとても大切にする人だったの。」



真琴は過去形で幸せだったと言った。彼もそこから悲劇が起こると察しただろう。



「でも父が会社をリストラされたことでそれまで順調だったものは歯車を崩して全て狂いだしたわ。職を失った父は再就職先を懸命に探したけれど、どこも父を雇ってくれるところはなかった。次第に投げやりになった父は家にいついてお酒に溺れて母と私に暴力を振るうようになったの。大事にしていた家族を支えることができなくなったことが父を苦しめていたんだと思う。一家の大黒柱になれなくなった自分に嫌気がさして・・・収入がなくなって家計を支えるために母が働きに出たけど、とてもまともに生活できる状況じゃなかった。母は仕事をいくつも掛け持ちしていたけれど・・母がそのうち疲労で倒れるんじゃないかって心配したわ。」



そうだろうね、という感じで彼は聞いていた。

「苦しくひもじい生活が続いていたある日、母が買い物に出かけて行ったまま戻ってこなくなったの。何日たっても帰って来る事はなかった。それでようやく悟ったの。」



真琴は顔を手で覆ってうなだれた。当時を思い出して今でも苦しい気持ちになる。重い息をついて真琴は呟く様に言った。



「母は私と父を置いて出て行ったんだってこと。私は母に捨てられたんだってこと・・・。」

彼は無表情で、淡々と話す真琴を見つめていた。その顔からどう思っているのかは想像できない。真琴の境遇に同情しているのか、哀れんでいるのか。



「一番大好きだった人にある日突然捨てられて、子供心に衝撃を受けたわ。胸にぽっかりと穴が開いたみたいに、世界から見放されたような気持ちになった。夜眠るふとんの中で不安で心細くて震えて何度も泣いたわ。」



真琴はかたく目を閉じて胸の前で手を合わせて包み込むようにした。

「そのすぐ後に父が交通事故で亡くなったの・・・・。」

真琴を襲った悲劇に彼は動じた様子もなく耳を傾けている。



「父が死んで、暴力を振るわれた怒りよりも何よりも、私すごく悲しかった。まだ会社に勤めていた頃の、優しかった頃の父のことを思い出してね。小さかった私を風車してくれたり、私の誕生日にささやかだけど苺のショートケーキを買ってきてくれて心から祝ってくれた父を。」



「この世で二人だけの家族を失った私は親戚の誰からも引き取られずに施設に送られることになった。乾いた心のまま、私は施設で誰とも打ち解けず暮らしたわ。この世界を信じて肯定できるか、絶望して信じられなくなるかのギリギリの瀬戸際に立って揺れていた時に、出会ったのがこの人なの。」



真琴はお墓に目を向けて言った。彼は無言で頷いた。

「初めは私がこの人に一目惚れしたの。色々あって私のピアノを見込んでくれてね、無償でピアノを教えてくれることになったの。とても優しくて一緒にいると心がとても温かくなる人だったわ。世の中に絶望していた私を惜しみもなく包み込んでくれたの。もう一度この世界を信じてみてもいいかもしれないと思ったくらいに。」



当時の幸せを感じさせるような明るい表情を一瞬見せたが、真琴はすぐに顔を曇らせて告げた。まるで天国から地獄へ転がり落ちてゆくように。暗闇に灯ったただ一つの明かりが消えて再び暗闇が訪れたように。



「でもそんな幸せな日々もつかの間、その人は交通事故で亡くなったの。別れの言葉も、お礼の言葉も言えずにあの人は逝ってしまった・・・」



真琴は首に提げたペンダントを胸から出して見つめた。今日まで肌身離さずに身につけてきたペンダントは陽を受けてその青い色を透明に輝かせている。

「あんなに私のことを愛してくれたのに・・・それだけが心残りだわ・・・。」



真琴は顔を上げて空を見上げた。その面差しは後悔の色が滲んだものからあの日の決意、誓いのものに変わった。口元を引き結んだ。



「私は悟ったの。私の愛する人達は皆、私の側からいなくなる。これは天が私に与えた宿命なんだわ。母親に裏切られ捨てられ、父に死なれて、この世界が信じられなくなった時にやっと出会えた大好きになった人も失った。白も・・もう嫌なのよ。あんな辛い思いをするのは。死んだ方がましだと思った。愛した人から裏切られて、大切な人を失って、こんなに苦しい思いをするぐらいなら一人きりで孤独に生きていく方がいい。大切な人がいなければもう悲しくて苦しい思いをしないですむもの。人を愛さなければ、裏切られることもない、失うこともない。そう決心してから今日の日まで私は他人を拒絶して生きてきた。人を信じてはいけない、もう人を好きになってはいけない、心を許してはいけないとね。私に関わった人は不幸になる。私は幸せになる資格がないのよ。神様はきっと私から大切な人を奪っていくのよ・・・・」





真琴は空から視線をはずして彼のほうを向いた。しばらく彼と見つめあった。空を鳥が渡っていく鳴き声が寺の敷地内に響いていた。真琴は言葉が喉に引っかかってためらいを見せたが、やがて意を決するように、はっきりと彼に告げた。



「だからあなたとは付き合えない。」



 くれゆく静寂の包む景色の中、真琴の声が響いた。見つめ合ったまま、しばしの沈黙の後、今までじっと真琴の話を聞いているだけだった彼が口をゆっくり開いた。真琴の心内を見透かされているように思えるくらいに彼の真琴を見る瞳は深く澄んでいて、真琴は怯んだ。



「君は・・君はそれで平気なの?」



 真琴の胸に彼の言葉がまっすぐに深く突き刺さった。心が痛む。でも・・でもこの苦痛さえ乗り越えれば・・・・きっと大丈夫・・・。



「それが本当に君の望むことなの。」





彼は真琴の痛む部分を言葉を続けてついてくる。そこから血があふれ出て流れ出しているような感覚になる。

「君はそうやって死ぬまで、人を拒み続けるの?人を愛さないの?」

「そうよ・・・・・もう遠い昔に決めたことなの。」



真琴は暗い表情で言った。その声は今にも消え入りそうな程に弱々しい。

「私柿本君のこと嫌いじゃないわ。でも・・・・・つき合ったとしてもあなたもいずれ私の前からいなくなるんだわ。死んだりしないとしてもいつかきっと・・・・・私の側から離れていく日が来るのよ・・・・。」



そう、いなくなる・・母のように、父のように、あの人のように、白のように・・・。

彼は突然真琴の腕を両側から強く摑んで切実な声で言った。その一言一言には切実な重みがある。



「僕は君をはなさない、君の側からいなくなったりしないよ。僕を信じろ。」



強い意志のこもった瞳が真琴をじっと見つめている。そのまなざしに真琴は嘘を感じはしなかった。むしろ信じてみたくなりそうにさせるくらいに真剣だった。しかし真琴は・・・・。



「・・・・ごめんなさい・・・信じられないわ。」

頑なに首を振る真琴に彼は深く重いため息をついた。 



「そうか・・・・わかった・・・・もう君には近づかない。もう話しかけないよ。」

 彼の悲しげなまなざしが真琴の目に焼きつく。





「さよなら。」





 ただそれだけ別れを告げると彼は真琴に背を向け去って行く。その瞬間だけスローモーションのように真琴には見えた。視界が揺れる。





(サ・・ヨ・・ナ・・ラ・・・・・)







その言葉が真琴の中で何度もこだました。その意味するものが真琴の胸に突き刺さる。

 遠ざかる彼の後ろ姿に真琴は自分の中に眠っていた過去の記憶を強烈に思い出した。それは唐突に真琴の中から沸きあがってきた。



母親が真琴を捨てて出て行った時のその後姿、ペンダントをくれたあの日、あの人に出会って別れ際に最後に見た後姿に重なった。さよならの意味するものが真琴の中に浮かんだ。



もう彼は真琴に近づいてこない。今までのように真琴が拒絶したとしても構ってくれるということもなくなる。もう彼と昔のようにふざけあうこともピアノを聴かせてあげることも。彼の絵を見ることもなくなる。遊園地に遊びに行ったりすることも。今日この日を境にして・・・



気がつけば真琴は彼の後ろ姿を追って駆け出していた。彼の背中に真琴はしがみついた。彼をつかんだ手は小刻みに震えだす。本当に一人ぼっちになる恐怖、世界に一人きり、全世界から見捨てられたような感覚、過去に何度も味わった感覚が真琴を襲っていた。



もし付き合っていつか彼を失ってしまうかも知れない恐怖よりも、今ここで彼を完全に失ってしまうという恐怖が真琴の中で勝っていた。彼の背にしがみつき震える真琴。彼に別れを告げられてやっと真琴は気づいた。



ここまで彼を失うことを恐れる程に、心が壊れてしまいそうになるほどに・・真琴にとって彼はいなくてはならない存在になっていたということを・・・彼が真琴の心の大きな部分を占めるようになっていたということを・・・。







いつの間にか柿本蓉介のことがこんなにも好きになっていたということを・・。









「置いて・・・いかないで・・・。」

小さく震える真琴の声。

「え・・・?」





彼は肩越しに真琴を見つめている。その瞳は真琴の答えを待っているよう。

「私を・・・」

俯いた顔を上げて真琴は言った。

「私を一人にしないで・・・・!」





 真琴は目を潤ませ、ぴんと張り詰めていた糸が途切れたように泣き出した。真琴は声をあげて泣いた。夢中で彼にしがみついて泣いた。彼もやっとかたくしていた表情を緩めて微笑んだ。こちらに向き直って静かに優しく真琴を抱きしめた。真琴の頭を優しくあやすように何度も撫でた。





「君を一人にはしないよ。ずっと側にいるから。約束する・・・。」

彼の腕の中で真琴は涙を流してこくんと頷いた。





柿本蓉介は真琴が泣き止むまでずっと優しく抱きしめてくれていた。西の空に沈みゆく夕陽が抱き合う二人のシルエットをつくり優しく包み込んでいるようだった。 

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