第73話 中学生になって見た夢のあの人達は誰?

文字数 4,080文字

時は過ぎて加奈は中学生になった。制服が変わり、背も少しは伸びた。だが心の上では小学生の頃と違わず、一人孤独なままだった。これで少しはマシな生活を送れるのではないかと期待したが不運にも加奈は愛と同じクラスになり小学校の延長のような感じで、周囲を巻き込みいじめられ続けた。



よく考えれば愛と違うクラスになったとしても愛はしつこく休み時間なりに加奈のクラスを訪れ、どうにかして加奈を陥れていた気がする。加奈は日常生活で嫌なことばかりに直面し、生きることに疲れていた。唯一の救いは時々家にやってくるおばあちゃんと過ごすひと時だけだった。



他に味方は皆無で、おばあちゃんといる時だけ、加奈は緊張した心をほぐし、笑顔になることが出来た。加奈がかろうじてこの世につなぎとめてられていたのはおばあちゃんがいてくれていたからかもしれない。





中学一年生の終わり、加奈は終業式を済ませ、帰路についた。これから二週間弱はクラスメイト達と顔を合わさなくて済むと思うとほっとした。家では相変わらずおばたちの加奈の扱いがひどかったが、そのことを差し引いても生活時間の大半を占める学校に行かなくてよいことは加奈にとって歓迎することだった。



その夜、ひどく安堵したせいか久しぶりに深い眠りに着いた。加奈の体は精神的に休息を求めていたようだ。心地よく優しい眠りに満たされた加奈は夢を見た。







夢の中で加奈は放課後の学校の校舎の中、人の気配のない静かな廊下を一人で歩いていた。白い霧のようなものがまわりを包み漂い、視界がひどくぼやけてまるで幻想の世界にいるような錯覚を受けた。



廊下に規則的に並ぶ窓からは深い紅色に染まる西日が差し込んできて廊下を赤く染め黒い影を落としている。目に映る何もかもが赤く映えてとても美しい夕方だった。加奈は初め自分が通っている中学校の校舎を歩いているのかと思ったがどうやらそうではないことに気づいた。



校舎の壁は古く、コンクリートだけでなく木材もふんだんに取り入れられた造りでできていた。よく見ると校舎全体からはとても古めかしい印象を受け、現代の学校の雰囲気と似つかわしくなかった。ただただ続いている廊下を当てもなくとぼとぼ歩いていると音楽室と書かれた木でできた、古びたプレートのかかった教室の前で足を止めた。



ドアが開いていたので中を見た。そこにはグランドピアノの前に座り、演奏する一人の少女がいた。窓から陽が差し込み暗闇と赤が支配するそのぞっとするくらい美しい荘厳な空間の中に少女はいた。加奈は音楽室の入り口に立ち、目に映るその光景に圧倒され、ただただ言葉もなく少女を見つめていた。



どれくらいそうしていたそうしていただろう、長かったかもしれなし、ほとんど時間がたっていなかったかもしれない。胸に迫る情景のせいで時間が気にならなくなり、むしろいつまで見ていても飽きることはないと感じていた頃、少女は鍵盤に落としていた顔を上げた。加奈はどきりとした。



自分の存在が知れてしまった、と思った。しかしそれは違っていた。少女は彼女以外の誰かに気がついて顔を上げたのは確かであるが、その誰かは加奈ではなかった。少女の顔は加奈が立っている入り口の方ではなく、反対側の音楽室の後ろの方の扉に向いていたのだ。その扉は既に開いており、この学校の制服であろう服を身につけた一人の少年が立っていた。



少女の場所からは加奈が立っている入り口も視界に入るはずであるが、少女は一向に加奈の存在に気づいた様子がない。彼女が加奈の存在に気がついていて無視しているのか、それとも加奈の姿が見えないからなのか加奈にはわからなかった。



少女は演奏を中断したまま、しばらく後ろのドアに立っている少年と見つめ合っているようだった。加奈はその光景をただ見守っていることしか出来なった。二人は知り合いなのだろうか。いや知り合いならこんな風に無言で見合ったりせずに、さっさと教室に少年が入っていくかもしれない。



ではお互い初対面なのか。状況を見ながら加奈がそんな考えを巡らしていると、少女と少年の間に流れていたしばしの静寂に変化が起こった。少女が少年に対して微笑みかけたのだ。その瞬間、少女の体の周りから暖色色のオーラといっていいのか、エネルギーの流れのようなものが少年の方に緩やかに流れていくのが加奈の目にはっきりと見えた。



それはまるで少女が少年に向けて拒絶ではなく好意を向けたということを明確に形あらわしたかのようだった。オーラを受けた少年もそれを返すように微笑み返した。すると少年の方からは穏やかな緑色のオーラが放たれ、少女のそれと調和した。



加奈は目の前で繰り広げられる非現実的な光景に圧倒され、口を半開きにして見ているだけだった。少年は音楽室に入っていき、ゆっくりとした動作で少女のいるグランドピアノのある所まで歩いていった。椅子に座る少女の側まで行き立ち止まると、少年は少女と言葉を交わしているようだった。



会話の内容は加奈には聞こえなかった。加奈にわかるのは少女と少年が穏やかに笑って話をしている様子だけだった。二人は話を終えると、少女はピアノの演奏を再会し少年は近くにあった机から椅子を持ってきてグランドピアノの側に置き、腰を下ろした。





少年は椅子に深く腰をかけて少女の演奏を静かに聴いていた。彼らの制服は加奈が初めて目にするもので、やはりこの学校は加奈の知っているところではないのだと改めて感じた。しばらく二人の姿を見つめていると、加奈の心に一つの思いが自然と浮かんだ。どうしてそう思ったのかはわからない。



しかし加奈は二人に対してそんな印象を持ったのだ。少女がピアノを演奏し、少年が側で聴いている光景はまったく違和感がなく本当に自然に見え、元々二人はそうあるべき、そうしているのが当然、初めから決まっていたことであるように思えた。まるでぴったりと枠にはまっているような。



 二人で一つのような感覚。漠然とだが確かにそう思った瞬間、唐突に何の前触れもなく今まで聴こえなかったはずのピアノの音色が加奈の耳まで届いた。この教室まで来る途中で流れてくるメロディに気づいてもよさそうだったが、不思議なことに今の今まで全く聴こえてこなかったのだ。



まるで何かのスイッチが切り替わったかのように、加奈がここに来て二人を認識したことで空間が変化したかのように、それは突然の出来事だった。急に聴こえてきた音色だけでも驚くことだが、演奏されている楽曲がさらに加奈を驚かせた。



母と加奈をつなぐ大切な曲、幸せな思い出がいっぱい詰まった曲だった。加奈は音楽室のドアの前で体に棒をさされたように立ち尽くした。懐かしいメロディに不意に加奈の胸は熱くなった。自分でも最近はめっきり弾かなくなっていたし、加奈以外の誰かが、他人が弾くのを聴くのも本当に久しぶりのことだったからだ。



幼かった加奈が側に体をぴったりと寄り添うようにして優しい母の顔を見つめて、母の演奏を穏やかな気持ちで聴いていた昔を思い出す。一体誰が、どんな人が弾いているんだろう、と加奈は少女を見ようと凝視したが、少女の顔は白くかすんでよく見ることができなかった。



それは少年も同じことだった。どんなに目を凝らしてみてもその表情をはっきりと伺うことはできなかった。実はここにきた当初から少女の顔が見えなかった。



それからこちらも同じ、顔の見えない少年があらわれて二人が交わした微笑は、白くかすんだ彼らの顔から何とかぼんやり読み取れたのと先程のオーラの調和の様子で微笑み合っていると加奈が解釈したのだ。



彼らが何者なのかもわからないというのにその光景は見ていると加奈の胸がきつく締め付けられて、泣きたくなった。溢れ出す気持ちを抑えきれなくなり衝動に駆られるまま、加奈は音楽室に足を踏み入れた。よろけながら不安定な足取りで二人の方に近づいていく。



加奈が目指している場所は丸く温かな赤と黄色と緑色の混じったオーラに包まれた空間のような気がした。



(私もあの中に入りたい。少年のように私も側に座って少女の優しい演奏を聴いていたい・・・寄り添うように・・・いつまでもずっと・・・。助けて・・苦しんでいる私を救って欲しい。苦悩と絶望で汚れたこの魂を洗い清めて欲しい・・・。)



神にもすがるような思いで二人のいる方へ歩いていく。半分の距離まで近づいた時、少年と少女が顔を上げて加奈の存在に気づいた。今まで全く気づかれなかったというのに。一瞬加奈は動揺して立ち止まったが再び歩き出した。



いくら近づいても二人の顔は見えなかったが、ふいに二人の口元のかすみが消えた気がした。確かなことではないが二人は近づいてくる加奈に微笑んだように見えた。いやそんな気がしただけかもしれない。



まるで加奈のことを歓迎するかのような微笑に見えた。加奈のことを拒絶せず受け入れてくれるような微笑・・。加奈は安心して更に近寄ろうとした時、突然何の前触れもなく、音楽室がまばゆいばかりの強烈な光に包まれ、視界を全て白一面で埋め尽くした。



少女も少年の姿も白い光に飲み込まれるように消えていく。後もう少し・・・もう少しで彼らの側に行くことができるのに・・・。何もかもが白い光の中に消えていく光景を見ながら加奈の目には涙が浮かんでいた。





気がつけば加奈は愛と共同で使っている部屋に敷かれた布団の中で目を覚ましていた。

「夢・・・・?」

まだ朝を迎えていない時間、カーテン越しにはまだ薄暗い外の景色が見えた。



頬に手をやると、どうやら眠っている間に泣いていたようで涙が頬から顎にかけてつたっていた。たくさん泣いたようでまだ頬は湿っていた。切なくなる夢だったなぁと加奈はまだ夢の余韻が覚めやらぬ状態でつぶやいた。



今でもはっきりと頭の中に夢の光景を思い出せる。それほどリアルな夢だった。隣のベットには愛が寝ていて穏やかな寝息が漏れてきていた。こんな夢を見るなんて、生きることが苦痛だから、現実逃避の夢となってこうしてあわられたのだろうか。この時加奈はそういう風に結論付けようとした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み