第67話 どうして付き合えないのか教えてあげる
文字数 3,217文字
真琴は音楽室にも再び、通いだした。長い間学校ではピアノを弾いていなかったので久しぶりだった。白が死んで施設でも演奏する気になれなかったのでピアノに触れること自体が久しかった。九月も終わりに近づき、音楽室の開け放した窓からは本格的な秋の訪れを予感させる肌寒い風が入り込んでいた。
窓辺に立って髪の毛を風になびかしながら真琴はぼんやりと夕陽に染まる校庭や遠くの景色を眺めていた。窓を閉めてピアノの椅子に腰を下ろし、ゆっくりと蓋を上げた。何を弾くか考えることもなく、真琴の手は勝手にといってもいい程に、演奏を始めた。無意識の内に真琴は落ち着いた悲しげな曲ばかりを選んで弾いていった。
明るいメロディの曲を弾くことを真琴の今の精神状態が拒んでいる。選曲をするまでもなく、今はこれらの曲しか弾けない、弾きたくない感覚だった。真琴の中にある気持ちを、悲しさ、苦しさ、やるせなさを込めるように、ピアノという手段でいっぱいに表現した。
空ろな表情で淡々と音をつむぎ出していると、真琴はここ最近に起こった出来事をスローモーションのようなゆっくりとした速さで頭の中に思い浮かべた。
柿本蓉介の絵を見に行った時の出来事、彼がクラスメイトの女子に告白され断ったこと、白が野犬に襲われ死んでしまったこと、彼が真琴に告白したこと、告白したこと、真琴のことを好きだといった・・・・好きと・・・。
ピアノの出す不協和音が音楽室内に大きく鳴り響いた。真琴は演奏の途中で鍵盤を両手で叩きつけていた。まだピアノの残響音がこだましている。真琴は座ったまま俯いてうなだれた。眉をひそめ息を一つつく。
「不安定な演奏だったね。表現って言うのは本人の心の状態がはっきり出るって言うけど。それとも最近演奏していなかったの?」
はっとして真琴が顔を上げて音楽室の入り口を見ると、陽にオレンジ色に顔を染められて、柿本が立っていた。彼はとても穏やかで優しい顔をしていて見つめていると、真琴は泣きたくなるくらいに切なくなった。蓋を静かに閉じて立ち上がった。
机に置いてあった鞄を拾い上げて音楽室を出ようと思った。彼から逃げるように帰ろうとした。彼の顔を見ずに俯いて音楽室を出ようとして、彼の前を通り過ぎようとした時、彼が真琴の腕をつかんだ。真琴は振り返って彼の顔を見た。
「真琴さん、どうしてそこまで僕のことを避けるの?」
彼は優しげな顔とはうって変わってとても寂しげなまなざしを真琴に向けていた。真琴の胸に、普段は笑顔の似合う彼にこんな悲しい表情をさせてしまったという罪悪感が広がった。
彼は何も悪くない、真琴の自分勝手な事情だけで彼を傷つけてしまったことに胸が苦しくなった。真琴は彼の手を振りほどこうとしたが、強くつかまれて離れない。
「離して。」
「そんなに僕のことが嫌いなの・・・?」
真琴は顔を上げて彼の寂しさをたたえた目を見つめた。
「そうじゃない・・・っ!そうじゃないの・・・・・嫌いなんかじゃない・・・。」
顔を歪めて今にも泣き出しそうな、哀願するようなまなざしを彼に向けて真琴は弱々しくつぶやいた。
「じゃあ、どうして・・・。」
少しの間ためらいを見せたが、真琴の中である決心がついた。もうこのままではいけない気がした。あやふやな今の状態を続けるわけにはいかない。彼にも真琴にとってもよくないことだ。彼には真琴の気持ちを伝えた方がいいのかもしれない。
「わかった、あなたと付き合えない理由を教えてあげる・・・・」
「理由?」
「そう、三日後の放課後、私が行くところについてきて。そこで話してあげるから・・。」
彼はよくわからないという疑問を持った顔をしながらも頷いた。真琴の気持ちが変わって何か決心した様子を悟ったからであろう。
三日後学校が終わって放課後、真琴と柿本は駅から電車に乗り、真琴の住んでいる施設の最寄り駅に向かった。いつも真琴が学校から帰る道のりを彼がついてきた形になった。途中電車の中で彼がどこに行くのかと聞いてきたが、ついてくればわかるから、と真琴は言っただけでそれ以上は話さなかったので、彼も黙って電車に揺られていた。
電車を降りて、施設には向かわずに真琴が小さい頃よく散歩した隣町への道を、彼と共に歩き出した。道の途中の花屋で家のリビングで飾るような色鮮やかな花ではなく、お供え用の花を買った。彼はそれを見てこれからどこに向かうのか想像がついたのかも知れない。
しばらく歩いていると真琴のよく知っているピアノの教室が見えてきた。あの人が亡くなって以来、真琴はここには来ていない。あの人がいなくなってはもう通う意味がなかった。ピアノ教室を通り過ぎる時、真琴は中の様子を見た。
まだ若そうな女性が子供達にピアノを教えている風景が見えた。真琴は顔を逸らして、足早に通り過ぎ去ろうとした。その光景を、見ているとあの人のことを思い出してしまって真琴は息苦しくなるからだ。そんな真琴の様子を彼が不思議そうに見ていたが、どう思っていたかはわからない。
道の先に坂道が見え、その上がった先にお寺の建物が見えた。坂を上りきり、寺の敷地内に入った。ここにこうしてやってくるのは何回目だろうか・・六回目ぐらいかしらと真琴は丸く細かい石が敷き詰められた砂利道を歩いた。今日はあの人が亡くなった日だった。
真琴は父のお墓参りと共に毎年欠かさずにあの人のお墓参りに来ていた。お寺の敷地内の一箇所に備えられた鉄製のバケツとひしゃくを借りて、バケツに水を注いだ。彼がそれを持ってくれて石柱郡の集まった塀の中に入っていき、一つのお墓の前で真琴は立ち止まった。彼も真琴の横で立ち止まり、バケツを地面に置いた。墓石にはあの人の名前が彫られている。
「これは誰のお墓なの?」
彼は静かに口を開いた。
「昔、私にピアノを教えてくれた人のお墓よ・・・。」
花を供えるところは二箇所あったが、既に花が供えられていて新しいのもだとすぐにわかった。真琴たちがやってくる前に誰かがこの墓に参りにきたのだろう。毎年真琴がこの日にここにやってくると今日みたいに花が添えられていたり、まだ誰も参っていなくて真琴が一番初めという時があった。
目の前の花を見つめて、あの人の親戚だろうか、それとも娘が御参りに来たのだろうかと考えた。あの人の一人娘は元気に暮らしているだろうか、あの人が亡くなってもう六年になるのだ。大好きだったあの人の子供なのだから真琴とは違い、幸せな人生を歩んでいて欲しいと思っていた。
お墓をバケツで汲んできた水で流して布巾で汚れを落とした。誰かが先に参った時に既に綺麗に掃除されていたようで真琴が手をつけるところはほとんどなかった。持ってきた花を添え、お線香に火をつけさした。真琴は手を合わせて目を閉じた。しばらくして目を開けて隣を見ると、彼も目を閉じ同じように手を合わせていた。
「この人が真琴さんにピアノを教えていなかったら、もしかしたらピアノを続けていなかったかもしれないでしょ?そうすれば君は学校の音楽室で演奏することもなく、僕と君は出会っていなかったかもしれない。だからそのお礼を今言ってたんだ。」
真琴は弱々しい笑みを浮かべた。心はせつないのだけれど、それと共に温かな感情がじんわりと広がるのを真琴は感じた。直接あの人と彼は面識がなかったので手を合わせる彼を見て不思議な感じがしたが、嫌な感じはなくむしろ嬉しく思った。
「私の演奏曲の中であなたが一番気に入った曲、この人が教えてくれたのよ。」
そうなんだ、と彼は感心したような顔をして見せた。それきり会話は途切れて二人の間に静かな沈黙が訪れる。真琴と彼はじっと墓を見つめていた。
お線香の煙だけが時々じっとしている二人を通り抜けて起こる風に揺られているだけだった。この沈黙に真琴は苦痛を感じてはいなかった。彼はどうだか知らないけれど、真琴は気持ちが落ち着いていくがはっきりとわかる。真琴は静かに語りだした。
窓辺に立って髪の毛を風になびかしながら真琴はぼんやりと夕陽に染まる校庭や遠くの景色を眺めていた。窓を閉めてピアノの椅子に腰を下ろし、ゆっくりと蓋を上げた。何を弾くか考えることもなく、真琴の手は勝手にといってもいい程に、演奏を始めた。無意識の内に真琴は落ち着いた悲しげな曲ばかりを選んで弾いていった。
明るいメロディの曲を弾くことを真琴の今の精神状態が拒んでいる。選曲をするまでもなく、今はこれらの曲しか弾けない、弾きたくない感覚だった。真琴の中にある気持ちを、悲しさ、苦しさ、やるせなさを込めるように、ピアノという手段でいっぱいに表現した。
空ろな表情で淡々と音をつむぎ出していると、真琴はここ最近に起こった出来事をスローモーションのようなゆっくりとした速さで頭の中に思い浮かべた。
柿本蓉介の絵を見に行った時の出来事、彼がクラスメイトの女子に告白され断ったこと、白が野犬に襲われ死んでしまったこと、彼が真琴に告白したこと、告白したこと、真琴のことを好きだといった・・・・好きと・・・。
ピアノの出す不協和音が音楽室内に大きく鳴り響いた。真琴は演奏の途中で鍵盤を両手で叩きつけていた。まだピアノの残響音がこだましている。真琴は座ったまま俯いてうなだれた。眉をひそめ息を一つつく。
「不安定な演奏だったね。表現って言うのは本人の心の状態がはっきり出るって言うけど。それとも最近演奏していなかったの?」
はっとして真琴が顔を上げて音楽室の入り口を見ると、陽にオレンジ色に顔を染められて、柿本が立っていた。彼はとても穏やかで優しい顔をしていて見つめていると、真琴は泣きたくなるくらいに切なくなった。蓋を静かに閉じて立ち上がった。
机に置いてあった鞄を拾い上げて音楽室を出ようと思った。彼から逃げるように帰ろうとした。彼の顔を見ずに俯いて音楽室を出ようとして、彼の前を通り過ぎようとした時、彼が真琴の腕をつかんだ。真琴は振り返って彼の顔を見た。
「真琴さん、どうしてそこまで僕のことを避けるの?」
彼は優しげな顔とはうって変わってとても寂しげなまなざしを真琴に向けていた。真琴の胸に、普段は笑顔の似合う彼にこんな悲しい表情をさせてしまったという罪悪感が広がった。
彼は何も悪くない、真琴の自分勝手な事情だけで彼を傷つけてしまったことに胸が苦しくなった。真琴は彼の手を振りほどこうとしたが、強くつかまれて離れない。
「離して。」
「そんなに僕のことが嫌いなの・・・?」
真琴は顔を上げて彼の寂しさをたたえた目を見つめた。
「そうじゃない・・・っ!そうじゃないの・・・・・嫌いなんかじゃない・・・。」
顔を歪めて今にも泣き出しそうな、哀願するようなまなざしを彼に向けて真琴は弱々しくつぶやいた。
「じゃあ、どうして・・・。」
少しの間ためらいを見せたが、真琴の中である決心がついた。もうこのままではいけない気がした。あやふやな今の状態を続けるわけにはいかない。彼にも真琴にとってもよくないことだ。彼には真琴の気持ちを伝えた方がいいのかもしれない。
「わかった、あなたと付き合えない理由を教えてあげる・・・・」
「理由?」
「そう、三日後の放課後、私が行くところについてきて。そこで話してあげるから・・。」
彼はよくわからないという疑問を持った顔をしながらも頷いた。真琴の気持ちが変わって何か決心した様子を悟ったからであろう。
三日後学校が終わって放課後、真琴と柿本は駅から電車に乗り、真琴の住んでいる施設の最寄り駅に向かった。いつも真琴が学校から帰る道のりを彼がついてきた形になった。途中電車の中で彼がどこに行くのかと聞いてきたが、ついてくればわかるから、と真琴は言っただけでそれ以上は話さなかったので、彼も黙って電車に揺られていた。
電車を降りて、施設には向かわずに真琴が小さい頃よく散歩した隣町への道を、彼と共に歩き出した。道の途中の花屋で家のリビングで飾るような色鮮やかな花ではなく、お供え用の花を買った。彼はそれを見てこれからどこに向かうのか想像がついたのかも知れない。
しばらく歩いていると真琴のよく知っているピアノの教室が見えてきた。あの人が亡くなって以来、真琴はここには来ていない。あの人がいなくなってはもう通う意味がなかった。ピアノ教室を通り過ぎる時、真琴は中の様子を見た。
まだ若そうな女性が子供達にピアノを教えている風景が見えた。真琴は顔を逸らして、足早に通り過ぎ去ろうとした。その光景を、見ているとあの人のことを思い出してしまって真琴は息苦しくなるからだ。そんな真琴の様子を彼が不思議そうに見ていたが、どう思っていたかはわからない。
道の先に坂道が見え、その上がった先にお寺の建物が見えた。坂を上りきり、寺の敷地内に入った。ここにこうしてやってくるのは何回目だろうか・・六回目ぐらいかしらと真琴は丸く細かい石が敷き詰められた砂利道を歩いた。今日はあの人が亡くなった日だった。
真琴は父のお墓参りと共に毎年欠かさずにあの人のお墓参りに来ていた。お寺の敷地内の一箇所に備えられた鉄製のバケツとひしゃくを借りて、バケツに水を注いだ。彼がそれを持ってくれて石柱郡の集まった塀の中に入っていき、一つのお墓の前で真琴は立ち止まった。彼も真琴の横で立ち止まり、バケツを地面に置いた。墓石にはあの人の名前が彫られている。
「これは誰のお墓なの?」
彼は静かに口を開いた。
「昔、私にピアノを教えてくれた人のお墓よ・・・。」
花を供えるところは二箇所あったが、既に花が供えられていて新しいのもだとすぐにわかった。真琴たちがやってくる前に誰かがこの墓に参りにきたのだろう。毎年真琴がこの日にここにやってくると今日みたいに花が添えられていたり、まだ誰も参っていなくて真琴が一番初めという時があった。
目の前の花を見つめて、あの人の親戚だろうか、それとも娘が御参りに来たのだろうかと考えた。あの人の一人娘は元気に暮らしているだろうか、あの人が亡くなってもう六年になるのだ。大好きだったあの人の子供なのだから真琴とは違い、幸せな人生を歩んでいて欲しいと思っていた。
お墓をバケツで汲んできた水で流して布巾で汚れを落とした。誰かが先に参った時に既に綺麗に掃除されていたようで真琴が手をつけるところはほとんどなかった。持ってきた花を添え、お線香に火をつけさした。真琴は手を合わせて目を閉じた。しばらくして目を開けて隣を見ると、彼も目を閉じ同じように手を合わせていた。
「この人が真琴さんにピアノを教えていなかったら、もしかしたらピアノを続けていなかったかもしれないでしょ?そうすれば君は学校の音楽室で演奏することもなく、僕と君は出会っていなかったかもしれない。だからそのお礼を今言ってたんだ。」
真琴は弱々しい笑みを浮かべた。心はせつないのだけれど、それと共に温かな感情がじんわりと広がるのを真琴は感じた。直接あの人と彼は面識がなかったので手を合わせる彼を見て不思議な感じがしたが、嫌な感じはなくむしろ嬉しく思った。
「私の演奏曲の中であなたが一番気に入った曲、この人が教えてくれたのよ。」
そうなんだ、と彼は感心したような顔をして見せた。それきり会話は途切れて二人の間に静かな沈黙が訪れる。真琴と彼はじっと墓を見つめていた。
お線香の煙だけが時々じっとしている二人を通り抜けて起こる風に揺られているだけだった。この沈黙に真琴は苦痛を感じてはいなかった。彼はどうだか知らないけれど、真琴は気持ちが落ち着いていくがはっきりとわかる。真琴は静かに語りだした。