第26話 彼はとんでもないモノを描いてしまいました

文字数 3,596文字

彼の絵を見せてもらって以来、彼との接し方が微妙に変化した。変化といってもただ、朝、教室に登校してきて彼から進んで真琴に挨拶をするようになったというだけである。



「やあ、真琴さん、おはよう。」

「・・・おはよう・・。」



少々訝りながらも真琴はぎこちなくだが返事をしていた。帰りにもじゃあまた明日ねと声をかけてきた。休み時間、お昼の御弁当タイムなどは彼は話しかけてはこなかったし、放課後音楽室にもやってくる気配はなかった。そういえば彼に初めて名前で呼ばれたのを今更ながらに気がついた。あまりにもそのことが自然な感じだったので気にならなかったのだ。



ある日の放課後、真琴は音楽室でいつものようにピアノを演奏していた。これまで暗く悲しい印象の曲ばかりを選んで弾いていたが、どういう心境の変化なのか、その時何となく明るいメロディの曲を弾いてみようと唐突に思ったのだ。



明るく楽しい感じの曲を演奏するのは、制服の下の今もこの首に下げているペンダントをくれた人が亡くなる以前の頃以来だったので本当に久々だった。どうしてこんな気持ちになったのか原因は不明だった。久しぶりに弾くので、指使いをゆっくりと確認しながら演奏していった。



しばらく弾いていると昔の感覚がよみがえってきてつまることなく演奏できるようになった。気持ちよく演奏し終えると、真琴は音楽室の入り口に人が一人立っているのに気がついた。ふいをつかれて真琴は飛び上がりそうになった。まるで初めて彼と面と向かって出会ったデジャブのようだったからだ。柿本蓉介は前と同様の笑顔をたたえ、手にはキャンパスノートを持ってそこに立っていた。高鳴っている胸を押さえて彼を睨んだ。



「もう、脅かさないでくれる?心臓が止まるかと思っちゃったじゃないの!」

「それはそれは。悪いことをしたね。君があまりにも気持ちよさそうに演奏してるものだからつい声をかけるのも憚られてね。終わるまで待ってたんだ。」



悪気を感じた様子もなく彼は音楽室に入ってきた。

「何でまた来たのよ。まさかまた私の演奏が聴きたいって言うんじゃないでしょうね。」



胸のどきどきがなかなか収まらない。以前と同じような状況なのに、真琴の心境だけが以前と微妙に違っていた。美術室で彼の絵を見たからだろうか。彼の絵を見て真琴は彼に対する興味が増していたのかもしれない。前は彼がここに来た時、完全に拒絶感情が真琴の心を占めていたのに、彼に対する嫌悪感が気がつけばいつの間にか薄れていた。



拒むよりも彼が来たことを不覚にも少しだけほんの少しだけ嬉しく思っている自分がいると真琴は感じていた。そんな自分を認めたくなくて彼にそんな気持ちを悟られたくなくて、今まで通り冷たくあたった。



「おや、僕はもうここには来ないっていう約束はしてないけどね。」

彼は調子を崩さずにさらっと言った。確かにあの時真琴は演奏を聴いたら出て行けとは言ったが、もう二度と来るなとは言わなかった。



「あなたって屁理屈言うのうまいわね。私にはとても真似できないわ。」

呆れて嫌味ったらしく言っても彼は笑んだだけで話題を変えた。

「今みたいな曲も演奏するんだね、君。」

「わ、私がどんな曲を弾こうが勝手でしょ。あなたには関係ないことだわ。」



彼の突然の来訪に驚いていて忘れていたが、そういえば彼に久しぶりに演奏した曲の数々を聴かれてしまったのだ。今更ながら真琴は恥ずかしさで赤面した。明るい曲はいつも無愛想な真琴には不似合いではないか。明るい曲を弾く真琴は彼の目にどう映っただろう。



「まあ、そうなんだけどね。これまで君は落ち着いた感じの曲ばかり演奏してたから意外というか何と言うか・・。でもさっきの演奏、とてもよかったよ。」

彼はさわやかに優しく微笑んで言った。恥じらいが微塵も感じられないその笑顔がどこまでも自然で屈託がなくまっすぐだったので、真琴はみるみる顔が上気した。頬から湯気が出ているのではないかと心配したくらいに。こちらが恥かしくなるようなことをよくもまああっさりと。



「う、うるさいわね!あなたなんかにほめられても嬉しくないわよ!」

「そう?それはちょっと残念。」



彼は首を傾げて笑顔の中に少しがっかりした表情を見せたような気がして、真琴はどきんとした。まさか彼がそんな顔するなんて思わなかったから。どう振舞えばいいか迷っていると彼が切り出した。



「君の演奏を聴きながら絵を描くとすごくはかどるんだ。前にここに来て思ったことなんだけれど。邪魔したりはしないからここにいちゃ駄目かな?」

彼の意外な言葉の連続に真琴は驚かされっぱなし、聞いてるこっちが恥ずかしくなるようなことを平気ですらすらと言うから、真琴のペースは狂わされっぱなしだった。



「・・・・勝手にすれば・・・。」

真琴は彼の態度に振り回されて疲れ、もうどうにでもなれという感じで言った。それに無意識の内に、出て行けと喉元まででかかった台詞を言えず飲み込む真琴がいた。理性ではいて欲しくないと思っていて、何故か心の奥深くではいて欲しいと感じていた。相反する気持ちが真琴の中で衝突して混乱し気持ちを整理することができなかった。



「ほんと?よかった。断られるとばかり思ってたから。お願いしたかいがあったよ。」

彼は嬉しそうに顔を輝かせて言った。その素直に喜んだ表情を見た途端、真琴の胸に何か柔らかく温かいものがじんわりと広がった。なんだろう、これ・・。



「じゃあ、毎日来てもいい?」

「調子に乗るんじゃないの!」



真琴は彼にからかわれているんではないかとむきになって怒った。真琴は気を取り直して演奏を再開した。彼は真琴のほうをしばらく満足そうに見ていたが、やがてキャンパスノートを開いて絵を描き始めた。真琴は演奏しながら鍵盤からちらりと顔を上げて彼を見た。



前と同じ、とても優しい顔をして絵を描くことに集中していた。どうしてだろう。そんな彼の顔を見ていると心が落ち着いて安らぎ、真琴が奏でるメロディさえもきらびやかさが増したような気がした。音楽室にこれまでとは違う不思議な空気が流れ出す。今までは一人きりでいた静かな空間だった。それがこの風景に彼という存在が加わっただけでこんなに感じ方が変化するなんて。



この空間も悪くはなくむしろ心地よいと思えた。真琴は彼が絵を描いている姿を知らぬうちに好きになっていた。心を奪われていた。



彼は二度目に音楽室にやってきて以来、毎日はやってこなかったが、日を空けてぽつぽつと真琴の演奏を聴きに来た。真琴は来た彼に文句を言いながらも、彼の在室を許可した。演奏中、彼は絵を描いているだけで話しかけてきたりはせず、特に邪魔してくるというわけでもなかったからだ。



ある日の放課後、リラックスして真琴がピアノを演奏し、側で彼が絵画を描いている時だった。真琴は長い時間演奏をしたので一息入れようと手を休めた。彼のほうを見ると彼は演奏を止めたのも気にした様子もなく、絵に集中していた。真琴はそーっと立ち上がって彼のほうに寄っていった。彼の後ろに立って上から絵を覗き込もうとした。真琴は彼の描いている絵を見て最初、絶句して固まってしまった。



今まで彼がどんな絵を音楽室で描いているのか見ようとはしなかった。真琴はなんとはなしのきまぐれで見たのだ。やっと口をパクパクさせて声を出した。



「ち、ちょっと、あなた何描いてるのよっ!」

「何って見てわかるでしょう?」

彼は絵から顔も上げず平然と答えた。



「そうじゃなくて!どうしてそんなものかいてるのかって聞いてるの!」

彼はキャンバスノートに真琴が音楽室でピアノを演奏している一場面を切り取ったように描き出していた。絵の技術が相当なので描かれている女性の顔は見間違えるはずがない、明らかに真琴だとわかる。



「うん、演奏してる君があまりにもいい表情をしていたから、是非描いてみたい創作意欲に駆られたんだよ。」

「なっ・・・・・!」



真琴の顔の温度が急上昇して一瞬で沸点を超えたみたいに真っ赤になった。

「本人の許可もなく勝手に描かないでよ!それに私こんな表情してないわよ!」

絵の中の真琴はとても幸せそうな穏やかな表情をしていた。真琴はこんな表情をした覚えはない。というか自分で自分の顔をみることはできないけれど、そんな優しい表情を真琴がするはずないと思った。しかし彼は。



「ううん、君はとても魅力的な表情をしていたよ。僕はこの目でしっかり見たんだからね。僕が描きたい絵のモチーフを決める時、なかなか描きたいってものが見つからないんだけど、演奏する君を見て迷うことなくすぐに描いてみたいって思ったんだよ。」

出し惜しみしないように彼は断固として否定せずに言う。



「この、まだ言うかっ!」

真琴は恥ずかしさに耐えられなくなって彼の肩をつかんで揺さぶったり、両手でポカスカと叩いた。いててと言いながらも彼は笑い声を上げていた。



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