第7話 知られてしまった真実

文字数 4,714文字

彼女に出会ってひと月が過ぎた。金曜日の夜、施設では子供たち皆が食堂に集まって夕御飯を食べていた。真琴もその中にいて食事をとっていた。職員のおばさんが手をたたいて子供たちに注目するように促した。一番隅のテーブルにいたおばさんは立ち上がっていて皆にお知らせを言った。



「明日の午後三時に、この施設にボランティアでピアノを演奏してくださる方が来ます。皆は明日学校から帰ってきて昼食をとったら外出せずに施設に待機していてくださいね。」



子供たちは皆元気な声で返事をした。この施設では毎月一、二回ぐらいの頻度で外部の人がやってきて無償で恵まれない子供たちのためにといろいろな見世物をしに来てくれることがある。



今まで来てくれた人々は歌手やプロのスポーツ選手、剣玉名人、など様々だった。ピアノ奏者か・・どんな人が来てくれるんだろうと真琴は少し期待した。他の子供たちはピアノにあまり興味がないからか、真琴ほど楽しみにしている風には見えなかった。



ピアノ教室であの彼女に教わってから真琴はさらにピアノにのめり込むようになっていて、他の大人がどんな演奏を聴かせてくれるのかとわくわくした。真琴の胸に期待が膨らみ、食欲が進んで残りの御飯を食べた。



土曜日、学校から帰ってきた真琴はいつもよりも弾んだ気持ちで昼食を食べた。真琴の嫌いな肉が献立に入っていたが、我慢して口に入れた。いつも残していると職員のおばさんによく怒られた。真琴のそんな様子を見て笑顔でおばさんが話しかけてきた。



「真琴ちゃんはピアノが大好きだから、今日演奏しに来てくれるのが楽しみで仕方ないんでしょう?」

真琴は心内を見透かされて、顔が赤くなり、そんなことないです、と否定したがはたから見ればバレバレだった。子供たちは昼食を終えた後、おばさんに昨日言われた通り外に遊びに行かずに施設内で過ごしていた。



小さな子供の何人かは遊びに行こうとしたが、年上の高校生らに注意されていた。三時十分前になると子供たちはピアノのある部屋に集められて座って、来客が来るのを大人しく待つように職員に指示された。子供達が座って騒がしくしている中に、真琴は胸をどきどきさせて一人黙って座っていた。



「皆、ボランティアの人が来てくれたら、いつものように元気に挨拶しましょうね。」

はーい、と子供達が元気に返事をした。時刻は三時ちょうどになって、おばさんの他に、別の職員が部屋に入ってきた。

「はいはい、みんな静かにしてください。ピアノ演奏してくださる方がお見えになりましたよ。」

おばさんが手をたたいて子供たちを静めさせて、部屋の入り口へ、どうぞお入りになってくださいと部屋の外にいるのであろう来訪者を促した。



真琴は入り口をじっと見つめた。ピアノを弾きに来てくれた人はどんな人だろう、男の人?女の人だろうか?と胸を躍らせていた。部屋に入ってくる人が一人。その人は満面の笑みを子供たちに向けて部屋の中央に立った。

「・・・!」

その人がいる周りの空間だけ急に光を放ち、色鮮やかになったような気がした。真琴は思考が停止して固まってしまった。先程まで感じていた期待や嬉しかった緊張が嘘のように、一瞬で真琴の中で音もなく消し飛んだ。そんな・・どうしてこの人がここに・・・・。



真琴はもはやどこへ逃げも隠れもできず、ただその人のことを見つめていることしかできなかった。やってきたその人は見間違うはずもない、真琴のよく知っている人間、真琴にピアノを教えてくれている彼女、その人だった。



子供達が声をそろえて大きな声で彼女に挨拶した。彼女はにっこり微笑んで子供たちにお辞儀をしてから挨拶を返した。挨拶ひとつにしても、彼女の振る舞いはとても穏やかでとても丁寧だった。職員のおばさんが彼女を子供たちに自己紹介し、彼女は話し出した。



「皆さん、こんにちは。今日は皆さんに私のピアノ演奏を聴いてもらいたくて、ピアノ教室を代表して来させていただきました。私のピアノを聴いて少しでも興味を持ってくれる人がこの中にいてくれたら嬉しく幸いです。頑張って演奏しますので今日はよろしくお願いしますね。」



子供一人ひとりに笑いかけるように彼女は言った。その時に初めて真琴は彼女と目が合った。真琴はもう施設で生活していることは隠せないと身を硬くした。彼女が来るとわかっていたならば、職員のいう事も聞かずにどこか外に逃げていたのに、だが今となっては後の祭りであった。



一瞬彼女は目を見開いて驚いた表情を見せたが、すぐにいつもの優しげな微笑を向けてくれた。真琴は彼女のそんな表情を見てどうしていいかわからなかった。嘘をついて、事実を隠していたわけで、とても後ろめたい気持ちがしていた。彼女に真琴を責める気はなかったとしても、彼女の微笑みは真琴に罪悪感を抱かせ、胸がズキリと痛んだ。



いや、もしかしたら笑いかけてくれてはいるけれど、本音では真琴のことを軽蔑してしまったのではないだろうかという不安に襲われた。あの人に嫌われてしまうのは今の真琴自身の存在を全て否定されてしまうようなものに等しかった。



それだけ真琴は彼女のことを心から好いていたのだ。彼女はさっそくピアノの方に向かい、椅子に腰を下ろした。恐怖に押しつぶされそうな真琴の心境をよそに彼女の演奏は始まった。



いつ聴いても彼女のピアノ演奏は神々しかった。子供たちは息をころし、彼女の演奏に魅入られていた。ある子供は口を開けたまま瞬きもしないでじっと彼女を見つめていたし、感動して涙ぐんでいる女の子までいた。



全ての子供達が彼女のつむぎだす美しい音色の一つ一つを聞き漏らすまいとするように集中して、真琴もその例外ではなかった。動揺していた心を追いやられて真琴も彼女の演奏に聴き入った。いや、追いやられたのではなく彼女の穏やかで温かな演奏が真琴の揺れ動いていた心を優しく包み込むようにして落ち着けていったのだった。



それだけ彼女の演奏は素晴らしいものだった。演奏された曲目は有名なクラシック曲、童謡、子供達が好みそうなポヒュラー曲まで様々だった。知っているどの曲も彼女が演奏するとなんだかとても新鮮な感じがして心が満たされるような感覚になった。



温かな曲調ならばより温かさが強調されて、切なく悲しげな曲ならば聴いていると本当に切なくなった。もちろん真琴に教えてくれた曲もしっかりと最後に演奏された。フィナーレを飾るにふさわしくその曲は聴いているもの達の心をいっぱいの温かさで満たしていった。



演奏が終わり彼女が椅子から立ち上がった。子供達に深く頭を下げると子供達はこれ以上は無理と言うくらいの大きな拍手を彼女に送った。感動の喝采が鳴り響く中、彼女は笑顔で子供達にお礼の言葉を述べた。







演奏をし終えて彼女が子供達に向けて温かなメッセージを送ってから、帰ることになり、子供達は並んでお礼を彼女に言い、再び拍手をし彼女を見送ることになった。微笑んで子供達に手を小さく振って彼女は部屋を出て行った。途中、彼女は真琴の方を見てにっこりとしていた。



皆に習い拍手をしながらちくりと真琴の胸を罪悪感が刺し、真琴はいてもたってもいられなくなり気づけば施設を飛び出している自分がいた。職員のおばさんの追いかけてくる声が後ろから聞こえたが構わなかった。彼女は施設の門を出ようとしているところだった。



真琴はかけて行き、彼女を呼び止めた。彼女は立ち止まって振り返り追ってきた真琴の姿を見て少し驚きの表情を見せた。

「真琴ちゃん。」

彼女は真琴を非難するでも怒るでもなく、いつものように微笑んで真琴の名を言った。



「あの・・ごめんなさい!今まで施設で暮らしてること黙ってて・・。」

息を少し弾ませて真琴は言った。目を強く閉じ深く頭を下げた。

「どうして謝るの?」



真琴が顔を上げると、少し困ったような顔をして彼女は聞いてきた。真琴は言いにくそうに口を開いた。

「おばさんは家族のこといっぱい話してくれたのに、私、本当のこと何も言わずに・・挙句に嘘もついてしまったから・・・・・。」



真琴の言葉は尻すぼみに小さくなっていき、俯いてしまった。わずかな沈黙が二人の間に流れる。彼女は真琴の肩に優しく手を載せて言った。

「いいのよ、そんな気にしないで。誰にだって人に話したくないことはあるんだから。ね?」



真琴は顔を上げて微笑みを絶やさない彼女を見つめた。何もかもを受け入れてくれそうな彼女を見ていると気持ちが揺らぐ。強くかためた決意が崩れそうになる。一瞬躊躇ったが意を決して真琴は彼女に告げた。

「お母さんは数ヶ月前に・・私とお父さんを家に置いて出て行きました。お父さんはそのすぐ後に交通事故にあってしまって・・・・それで施設で生活してたんです、私。」

彼女は驚きを隠せない表情で言った。



「まあ・・そうだったの・・。そうとは知らず私、家族の・・自分の娘の自慢話なんかしてしまったのね。真琴ちゃん・・・無神経なことして私の方こそ謝らないといけないわ・・ごめんなさい・・。」

悲しそうに言った彼女を見つめて、真琴はどうしよもなく気持ちが高ぶって言った。



「おばさん、そんな風に謝ったりしないで下さい・・私おばさんにそんなこと言われたら・・・・」

胸から喉へとこみ上げてくるものを我慢して抑えようとしたが、駄目だった。真琴はしゃくりあげながら泣き出した。熱い雫が頬を濡らす。



本当のことを言い、彼女に同情されたからなのか、それとも彼女には真琴の孤独な辛さを知って欲しかったからなのか、抑えていた感情があふれ出した。彼女はただ何も言わずにゆっくりと真琴の小さな体を強く抱き締めてくれた。彼女の体温が直に伝わってきて温かかった。真琴は夢中で彼女にしがみついて泣いた。

「無理しなくていいのよ。辛い時は辛いって・・悲しい時は悲しいって言ってもいいのよ。真琴ちゃん。」

優しげで囁くような穏やかな声で真琴を安心させるように彼女が言ってくれた。彼女の胸の中で真琴はこくんと小さく頷いた。真琴の頭を抱え込むように撫でてくれた。



「私なんかじゃ頼りなくて物足りないかもしれないけれど・・。」

真琴は顔を上げ泣きはらした目でそんなことないです、とはっきり否定した。そう、よかったと彼女は優しいまなざしで真琴を見つめた。彼女の笑顔は心優しい母親そのものだった。



怖い目に合っても、辛いことがあっても深い傷を負っても、泣いて帰ったら、子供を安心して迎えてくれる母親とういう存在、帰る場所がある、傷ついた心を癒し、再び子供は羽ばたいていくことができる・・いつも心の奥ではわかっている、母親が側にいてくれること・笑顔で送り出してくれる・・だから子供は安心して遠くに行くことができる・・この世界は絶望だけではないと信じられる、愛することができる・・・そんな大切な存在・・・真琴がこの世界で一人きりになった瞬間に失ってしまったものだった。



今真琴はそんな貴重な存在を全身で強く感じていた。

「おばさんを初めて見た時、おばさんのことが気になって目が離せなくなって・・おばさんと出会って話すようになってすぐに大好きになりました・・・おばさんに本当のこといったら私、こんな風におばさんにすがりつきたくなるってわかってたから、言えなかったんです・・。そんな自分が惨めだし、おばさんがわかってくれても重荷なってしまうから・・・。」



拒まれたりしたら怖いから、失うのが怖いから・・・今の関係のままでいいと真琴は自分を納得させていたのだ。彼女は眉根を寄せて目に涙を光らせて悲しそうに笑った。

「今までよく頑張ったね・・真琴ちゃん・・・。」

彼女は真琴を抱きしめる腕を一層強めてくれた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み