第2話 真琴のお母さん
文字数 3,924文字
うらぶれた貧困層の住宅がひしめく中の、一つの古い小さな建物に真琴は父、母の三人暮らしで住んでいた。強い風が吹けば倒壊してしまうのではないかと思えるくらいさびれた家だった。
周囲の家々も同じように古い建物が並び、殺風景な光景をかもし出している。
そこで生活する人々の表情は冴えず、暗い面持ちで生活していた。
空は鉛色ですっかりと太陽を覆い隠し昼の時間であっても暗くどんよりとしていた。
木枯らしが枯葉や土ぼこりをまき上げてボロ家の間を通り抜けていく。
道のいたるところでいつ誰が捨てたかもわからないガラクタの山が散乱して、
町の景観をさらに汚染していた。
誰も片付けて掃除しようとするものはいなかったのでいつまでもそれらは放置されたままだった。
「どこに酒を隠した!」
真琴は父に平手を張られて畳の上に倒れた。
手に持っていたおもちゃの西洋人形を離してしまった。
父は真琴の襟をつかみあげて怒鳴り散らした。
六歳になって間もない小さな真琴の体が宙に浮いて、その小さな肩は恐怖で小刻みに震えている。
父の吐く息からかなりのお酒の臭いが漂ってきていた。
「どこにあるか言わないと痛い目に合わすぞ。」
「私、知らないよ。隠してないもん・・」
声を震わせながら言う真琴を父は容赦なく叩いた。
目から涙が、鼻から赤い鮮血が流れ出す。
外まで父の怒鳴り声が響いていたのであろうか玄関の扉が開いて、
母が靴を脱ぎ捨てるように急いで家の中に入ってきた。
「あなた、やめてください!真琴には手を出さないで、お願いだから!」
母が締め上げられている真琴を父から必死に引き剥がそうとした。
やかましい、と母は突き飛ばされて壁に背中を痛打した。
「酒をだせ、酒をーっ!」
母は背中を痛そうに押さえて四つんばいで畳を這うようにしながら、台所の隅にある棚の下から日本酒の瓶を取り出した。父が手を離したので真琴はそのまま畳に倒れた。
涙と鼻血で顔を濡らして、声も出せずただ震えていた。
父は台所の方に近づいていき、母の手から乱暴に日本酒の瓶を取り上げた。
「小ざかしいことしやがって、初めから目のつくところに酒を置いておけばいいんだよ。この馬鹿女が!」
瓶の栓を抜いてそのままラッパ飲みしながら、倒れている母を足蹴にした。
母が真琴の側まで行って、真琴を抱き起こした。
「大丈夫、真琴ごめんね、ごめんね・・・」
ティッシュで鼻血を拭きながら母は心配そうに顔をしかめて真琴の顔を覗き込んだ。
真琴は母に抱きついて初めて小さい声で泣いた。
「うるせーんだよっ!この餓鬼が、これぐらいのことで泣くな!」
真琴を抱きしめている母の背中を何度も父は蹴ってきた。
母は真琴を抱っこしたまま父から逃げるように家から出た。
父の追いかけてくる怒鳴り声には振り返らずに母は貧民街のさびれた道をかけていった。
父はアルコール中毒だった。勤めていた会社をリストラされて無職になり、
再就職先を探したがどこからも雇ってはもらえず、そのうち仕事を探すのを止め、
ずっと家にいりびたるようになった。
それからは酒を浴びるように飲むようになり、母や真琴によく暴力を振るって母も真琴も常に恐怖に怯えながら生活していた。母も真琴も体のあちこちに暴行される傷が絶えなかった。
真琴はまだ母から守られて傷は少なかったが、その分母が傷を増やした。
父が働かないので、母が仕事に出るようになり、家計を支えるために身を削るようにして働いた。
収入は少なく、生活は苦しかった。父の酒代で生活費が消えることがほとんどだった。
父の暴力がひどい時、母はよく真琴を連れて家を出た。春や夏は良かったが、秋から冬にかけて外は身を切られる様な寒さで、寒空の中、満足な防寒服もないまま比較的、風のない場所で真琴は母と身を寄せ合っていた。喫茶店やレストランへ行くようなお金はなかった。
ある日、仕事から帰って来た母は夕御飯を作っていた。気のせいだろうか母はこの日、真琴に対して不自然なほど優しかった。出てきた夕飯もいつもより豪勢で、美味しかった。
今日は何かの祝い事でもあるのかと真琴は小さい子供なりに考えたが、特に母は何も言わなかった。エプロンをはずしながら母は言った。
「ちょっと買い物に行って来るわね。真琴、おふとん敷いておいたから先に寝ていてね。暖かくして寝るのよ。わかった?」
うんと元気に頷いた真琴の頭をいい子ね、と撫でて母は微笑んだ。その笑顔が一瞬曇ったように真琴には見えたがすぐに母は笑顔になっていた。
隣の部屋で酒の飲みすぎで畳に寝転がっている父を見てから、真琴に向き直ってじゃあ、行って来るわねと出て行った。
「いってらっしゃい。」
真琴は母を玄関で見送った。
母の背中を見たのはこれで最後だった。
それきり母はこの家に帰ってくることはもう二度となかった。
真琴が七歳の頃の出来事だった。
母が最後に家を出て行った日、真琴は先に寝るように言われたが、少しだけ待っていようと布団の中でうつ伏せになり、大好きで何度も母が読んでくれた絵本を読んでいた。
父は相変わらず、隣の部屋でお酒を飲んでいた。時折誰に言っているのかわらないような独り言で、怒りを吐き出すように大声を上げていた。酒の酔いに任せて、まるで世の中の全てを呪っている様に見えた。
壁にかかった時計の針が進み、あと少しで日付けが変わる時刻になったが、母は帰って来なかった。
真琴は眠気に襲われて母の帰りを迎えるのあきらめ、深い眠りについていった。
夢うつつのまどろみの中で、明日の朝になれば、母がいつものように真琴を優しく起こしてくれるだろうと何の疑いもなく安心していた。真琴、朝よ。起きなさい、と穏やかな声で。
母はいつも朝御飯を作って真琴を起こし、学校へ送り出してくれていた。
次の日の朝、真琴は誰かに起こされることはなく、自分で起きることになった。目をこすって体を起こして、隣に母のふとんが昨日のままおりたたまれているのを見た。
「お母さん・・・・?」
ふとんから這い出し、パジャマ姿のまま家の中を歩いた。居間では父がお酒の瓶を抱えるようにしていびきをかいて眠りこけている。この狭い家の中、母の姿はどこにもなかった。玄関を見たが母の靴もなかった。
「お母さん、どこ?いないの?」
ひび割れたガラス窓から朝の光りが差し込んで、古くなった畳を照らしている。
真琴は今日、日曜日で学校が休みだったので遅刻する心配はなかった。母はもしかして夜遅くに帰ってきて、朝真琴が起きる前に再び、仕事か用事で出かけていったんだろうかと思った。
それなら夕方に母はいつも通り帰ってくるだろうが、母が真琴の昼ごはんを用意していかなかったのが気になった。いつもなら母が朝早くに出かける時でも、何かしらおかずを作ってその上にラップをして机に並べていたが、今日は机の上には何も用意されていなかった。
昼ごはんも作る暇がないくらい早くに出かけなくてはならなかったのだろうか。真琴は着替えてから歯を磨き、一人で食パンを半分にして焼いて食べた。仕方なくお昼ごはんを冷蔵庫の残り物で済ませてから、真琴は父を残して外に出かけた。
うらぶれた街を抜けて、一般の住宅がひしめく地域を歩いて散歩した。途中、公園があってブランコに一人乗って揺られていると、真琴と同じくらいの年齢の女の子が公園の前の歩道をその母親と楽しそうに横切った。
「お母さん、早く帰ってこないかな・・・」
その親子を見えなくなるまで見送ってため息をついた。夕方、家に帰っても母はまだ帰ってきていなかった。今日は帰りが遅くなるのかなと考え、真琴は一人で時間を過ごした。
陽が完全に沈んでも、一向に母は帰って来なかった。いくらなんでも遅すぎる、電話さえもなくこれはおかしいと真琴は思った。
お腹がすいて音がなりそうだった。父に母はどうしたと聞かれたが、真琴は知らないと首を左右に振るだけだった。だんだん不安になってきて、真琴は外に出て近くまで母が来ていないか見に行ったが、辺りは街灯の乏しい街の暗闇が広がっているだけだった。
肩を落として家に戻った。結局その日も夜遅くまで待っても母は戻ってこなかった。もしかして母はもうこの家に帰ってこないのではないかと薄々感じて心細くなった。
次の日もその次の日も母は帰ってこなかった。真琴が母に捨てられたことをようやく悟るまでには、多くの日数が掛かることはなかった。
最後の母との場面を真琴は鮮明に覚えていた。母がいなくなって一週間がたった今でも克明に思い出すことが出来る。笑顔で真琴に話しかけた母。あの時一瞬見せた笑顔に落ちた陰りの意味はこのことだったのだろうか。
真琴と父を捨てて遠くに行ってしまうことへの罪の意識だったのか。真相は定かでなかったが真琴にはそう思えてならなかった。母はどうして真琴を置いて出て行ったのだろうか。
アルコール中毒で家に入り浸っている父の暴力に耐えかねて、こんな貧しくひもじい生活に嫌気がさして出て行ったのか。ならばどうして真琴も連れて行ってはくれなかったのか。
何もかもを忘れて人生をやり直すためには真琴を置いていかなければいけなったのか。
小さな真琴にはそんなことに考えを巡らせることはできず、ただ捨てられた、という残酷な事実だけが真琴の小さな心を蝕み傷つけた。
真琴はこの世で最も信頼をしていた母親に捨てられ、裏切られ心の中に大きな穴がぽっかりと開いてしまった。その喪失感は容易に埋められるものではなかった。世界の終わりが来てしまったようで恐ろしく、何度も泣いた。夜一人きりで不安に押しつぶされそうになりながらふとんの中で何度も泣いた。
「お母さん、お母さん・・・・どうして真琴を置いて出て行ったの・・・今どこにいるの・・・?」
周囲の家々も同じように古い建物が並び、殺風景な光景をかもし出している。
そこで生活する人々の表情は冴えず、暗い面持ちで生活していた。
空は鉛色ですっかりと太陽を覆い隠し昼の時間であっても暗くどんよりとしていた。
木枯らしが枯葉や土ぼこりをまき上げてボロ家の間を通り抜けていく。
道のいたるところでいつ誰が捨てたかもわからないガラクタの山が散乱して、
町の景観をさらに汚染していた。
誰も片付けて掃除しようとするものはいなかったのでいつまでもそれらは放置されたままだった。
「どこに酒を隠した!」
真琴は父に平手を張られて畳の上に倒れた。
手に持っていたおもちゃの西洋人形を離してしまった。
父は真琴の襟をつかみあげて怒鳴り散らした。
六歳になって間もない小さな真琴の体が宙に浮いて、その小さな肩は恐怖で小刻みに震えている。
父の吐く息からかなりのお酒の臭いが漂ってきていた。
「どこにあるか言わないと痛い目に合わすぞ。」
「私、知らないよ。隠してないもん・・」
声を震わせながら言う真琴を父は容赦なく叩いた。
目から涙が、鼻から赤い鮮血が流れ出す。
外まで父の怒鳴り声が響いていたのであろうか玄関の扉が開いて、
母が靴を脱ぎ捨てるように急いで家の中に入ってきた。
「あなた、やめてください!真琴には手を出さないで、お願いだから!」
母が締め上げられている真琴を父から必死に引き剥がそうとした。
やかましい、と母は突き飛ばされて壁に背中を痛打した。
「酒をだせ、酒をーっ!」
母は背中を痛そうに押さえて四つんばいで畳を這うようにしながら、台所の隅にある棚の下から日本酒の瓶を取り出した。父が手を離したので真琴はそのまま畳に倒れた。
涙と鼻血で顔を濡らして、声も出せずただ震えていた。
父は台所の方に近づいていき、母の手から乱暴に日本酒の瓶を取り上げた。
「小ざかしいことしやがって、初めから目のつくところに酒を置いておけばいいんだよ。この馬鹿女が!」
瓶の栓を抜いてそのままラッパ飲みしながら、倒れている母を足蹴にした。
母が真琴の側まで行って、真琴を抱き起こした。
「大丈夫、真琴ごめんね、ごめんね・・・」
ティッシュで鼻血を拭きながら母は心配そうに顔をしかめて真琴の顔を覗き込んだ。
真琴は母に抱きついて初めて小さい声で泣いた。
「うるせーんだよっ!この餓鬼が、これぐらいのことで泣くな!」
真琴を抱きしめている母の背中を何度も父は蹴ってきた。
母は真琴を抱っこしたまま父から逃げるように家から出た。
父の追いかけてくる怒鳴り声には振り返らずに母は貧民街のさびれた道をかけていった。
父はアルコール中毒だった。勤めていた会社をリストラされて無職になり、
再就職先を探したがどこからも雇ってはもらえず、そのうち仕事を探すのを止め、
ずっと家にいりびたるようになった。
それからは酒を浴びるように飲むようになり、母や真琴によく暴力を振るって母も真琴も常に恐怖に怯えながら生活していた。母も真琴も体のあちこちに暴行される傷が絶えなかった。
真琴はまだ母から守られて傷は少なかったが、その分母が傷を増やした。
父が働かないので、母が仕事に出るようになり、家計を支えるために身を削るようにして働いた。
収入は少なく、生活は苦しかった。父の酒代で生活費が消えることがほとんどだった。
父の暴力がひどい時、母はよく真琴を連れて家を出た。春や夏は良かったが、秋から冬にかけて外は身を切られる様な寒さで、寒空の中、満足な防寒服もないまま比較的、風のない場所で真琴は母と身を寄せ合っていた。喫茶店やレストランへ行くようなお金はなかった。
ある日、仕事から帰って来た母は夕御飯を作っていた。気のせいだろうか母はこの日、真琴に対して不自然なほど優しかった。出てきた夕飯もいつもより豪勢で、美味しかった。
今日は何かの祝い事でもあるのかと真琴は小さい子供なりに考えたが、特に母は何も言わなかった。エプロンをはずしながら母は言った。
「ちょっと買い物に行って来るわね。真琴、おふとん敷いておいたから先に寝ていてね。暖かくして寝るのよ。わかった?」
うんと元気に頷いた真琴の頭をいい子ね、と撫でて母は微笑んだ。その笑顔が一瞬曇ったように真琴には見えたがすぐに母は笑顔になっていた。
隣の部屋で酒の飲みすぎで畳に寝転がっている父を見てから、真琴に向き直ってじゃあ、行って来るわねと出て行った。
「いってらっしゃい。」
真琴は母を玄関で見送った。
母の背中を見たのはこれで最後だった。
それきり母はこの家に帰ってくることはもう二度となかった。
真琴が七歳の頃の出来事だった。
母が最後に家を出て行った日、真琴は先に寝るように言われたが、少しだけ待っていようと布団の中でうつ伏せになり、大好きで何度も母が読んでくれた絵本を読んでいた。
父は相変わらず、隣の部屋でお酒を飲んでいた。時折誰に言っているのかわらないような独り言で、怒りを吐き出すように大声を上げていた。酒の酔いに任せて、まるで世の中の全てを呪っている様に見えた。
壁にかかった時計の針が進み、あと少しで日付けが変わる時刻になったが、母は帰って来なかった。
真琴は眠気に襲われて母の帰りを迎えるのあきらめ、深い眠りについていった。
夢うつつのまどろみの中で、明日の朝になれば、母がいつものように真琴を優しく起こしてくれるだろうと何の疑いもなく安心していた。真琴、朝よ。起きなさい、と穏やかな声で。
母はいつも朝御飯を作って真琴を起こし、学校へ送り出してくれていた。
次の日の朝、真琴は誰かに起こされることはなく、自分で起きることになった。目をこすって体を起こして、隣に母のふとんが昨日のままおりたたまれているのを見た。
「お母さん・・・・?」
ふとんから這い出し、パジャマ姿のまま家の中を歩いた。居間では父がお酒の瓶を抱えるようにしていびきをかいて眠りこけている。この狭い家の中、母の姿はどこにもなかった。玄関を見たが母の靴もなかった。
「お母さん、どこ?いないの?」
ひび割れたガラス窓から朝の光りが差し込んで、古くなった畳を照らしている。
真琴は今日、日曜日で学校が休みだったので遅刻する心配はなかった。母はもしかして夜遅くに帰ってきて、朝真琴が起きる前に再び、仕事か用事で出かけていったんだろうかと思った。
それなら夕方に母はいつも通り帰ってくるだろうが、母が真琴の昼ごはんを用意していかなかったのが気になった。いつもなら母が朝早くに出かける時でも、何かしらおかずを作ってその上にラップをして机に並べていたが、今日は机の上には何も用意されていなかった。
昼ごはんも作る暇がないくらい早くに出かけなくてはならなかったのだろうか。真琴は着替えてから歯を磨き、一人で食パンを半分にして焼いて食べた。仕方なくお昼ごはんを冷蔵庫の残り物で済ませてから、真琴は父を残して外に出かけた。
うらぶれた街を抜けて、一般の住宅がひしめく地域を歩いて散歩した。途中、公園があってブランコに一人乗って揺られていると、真琴と同じくらいの年齢の女の子が公園の前の歩道をその母親と楽しそうに横切った。
「お母さん、早く帰ってこないかな・・・」
その親子を見えなくなるまで見送ってため息をついた。夕方、家に帰っても母はまだ帰ってきていなかった。今日は帰りが遅くなるのかなと考え、真琴は一人で時間を過ごした。
陽が完全に沈んでも、一向に母は帰って来なかった。いくらなんでも遅すぎる、電話さえもなくこれはおかしいと真琴は思った。
お腹がすいて音がなりそうだった。父に母はどうしたと聞かれたが、真琴は知らないと首を左右に振るだけだった。だんだん不安になってきて、真琴は外に出て近くまで母が来ていないか見に行ったが、辺りは街灯の乏しい街の暗闇が広がっているだけだった。
肩を落として家に戻った。結局その日も夜遅くまで待っても母は戻ってこなかった。もしかして母はもうこの家に帰ってこないのではないかと薄々感じて心細くなった。
次の日もその次の日も母は帰ってこなかった。真琴が母に捨てられたことをようやく悟るまでには、多くの日数が掛かることはなかった。
最後の母との場面を真琴は鮮明に覚えていた。母がいなくなって一週間がたった今でも克明に思い出すことが出来る。笑顔で真琴に話しかけた母。あの時一瞬見せた笑顔に落ちた陰りの意味はこのことだったのだろうか。
真琴と父を捨てて遠くに行ってしまうことへの罪の意識だったのか。真相は定かでなかったが真琴にはそう思えてならなかった。母はどうして真琴を置いて出て行ったのだろうか。
アルコール中毒で家に入り浸っている父の暴力に耐えかねて、こんな貧しくひもじい生活に嫌気がさして出て行ったのか。ならばどうして真琴も連れて行ってはくれなかったのか。
何もかもを忘れて人生をやり直すためには真琴を置いていかなければいけなったのか。
小さな真琴にはそんなことに考えを巡らせることはできず、ただ捨てられた、という残酷な事実だけが真琴の小さな心を蝕み傷つけた。
真琴はこの世で最も信頼をしていた母親に捨てられ、裏切られ心の中に大きな穴がぽっかりと開いてしまった。その喪失感は容易に埋められるものではなかった。世界の終わりが来てしまったようで恐ろしく、何度も泣いた。夜一人きりで不安に押しつぶされそうになりながらふとんの中で何度も泣いた。
「お母さん、お母さん・・・・どうして真琴を置いて出て行ったの・・・今どこにいるの・・・?」