第10話 再び与えられた喪失
文字数 4,519文字
彼女に誕生日を祝ってもらってから数日たった日曜日の昼、真琴はピアノを教えてもらうためにピアノ教室を目指して歩いていた。足取りは軽く弾んで、それに合わせて首からかけたペンダントが太陽の光を浴びて光り輝き、真琴の胸元で揺れている。今日は彼女の娘に会える。
一体どんな子だろうとわくわくした。真琴のためにマフラーまで編んでくれた子だ。心優しい子に決まっている。何といってもあの人の一人娘なんだし。ピアノ教室にたどり着き、何のためらいもなく入っていこうとした足を、目に飛び込んできた光景のために即座に止めた。
後ずさりピアノ教室から少し離れて隠れるように屈みこんだ。ピアノ教室にいたのは彼女ではなく、別の講師の女性だった。年齢は五十代ぐらいだろうか、ベテランのような雰囲気を醸し出していて真琴は初めてここに来た時に一度だけ見たことがあった。真琴は首を傾げた。
いつも日曜日のこの時間はこのペンダントをくれたあの人がいるはずなのに姿が見えない。もしかして教室の奥の部屋にいるのか、としばらく待ってみたが彼女が奥から出てくる様子もない。教室内に彼女はいないらしい。出てきたとしても今他の講師がいるので真琴は教室に入っていくことはできない。今日は何か急用ができて教室にこれなかったのか。
いや彼女ならきっと用事ができたら真琴にきちんと何らかの方法で教えてくれるに違いない。彼女から連絡は何もなかったので用事か何かで遅れているのだろうかとしばらく待つことにした。しかしいくら待っても、時が過ぎても彼女が現れることはなかった。真琴はだんだん不安になってきた。こんなことは今まで一度もなかった。毎週日曜日、真琴は彼女に会えるのを楽しみに、欠かさずここに足を運んでいた。
彼女に何か合ったのだろうかと心配になってきた。ふいに真琴の頭の中を数日前に見た悪夢が不吉な映像としてかすめていった。荒廃したような真琴の住んでいた街で、母だった人が彼女に姿が変わり、真琴を見捨てて離れていく夢・・・・真琴の小さな胸を発作的に恐怖と不安が襲い、いてもたってもいられなくなった。このままここで待っていても仕方ないと思い、首からさげたペンダントを握りしめた。立ち上がりピアノ教室の方へと歩き出した。心を静めようとしても胸の高鳴りを抑えることはできない。
入り口まで来ると、ガラス越しに教室内にいる講師のおばさんと目が合った。真琴は会釈してドアを開けて中に入った。
「こんにちは。あの、聞きたいことがあるんですが。」
恐る恐る話し出した真琴を、おばさんは上から下まで観察するように見つめてから言った。
「こんにちは。あなた、初めて見る顔だけど。ここのレッスンに通ってる子じゃないわね。どなたかしら?」
真琴はびくりと体を震わせて言葉に詰まった。どういえばいいのか、まさか毎週日曜日にあの彼女に無償でピアノを教えてもらっているとは言えない。
「あ、あの・・私、※※施設で生活してる者なんです・・。以前ここの講師の方が演奏しに施設に来てくださったんですが。今日はその方にお会いしたくて来たんですけど・・・。」
来た理由は嘘だが、言ったことは事実だった。講師のおばさんは、ああ、あの施設の、と納得したように頷いた。それを見て真琴はほっとした。
「そう・・・・・彼女に会いに来たの・・・・。」
おばさんは急に顔を曇らせてつぶやいた。おばさんの沈んだ表情を見て真琴は嫌な予感がした。本能が告げている。何も聞かずここから今すぐ逃げ出したい気持ちになった。
真実を知ることを真琴の体が強く拒んでいる。しかしそんな真琴の心とは裏腹に真琴の口は無意識に動いた。声が震える。
「あの人は今日・・・ここには来られないんですか・・?」
おばさんは言いにくそうにした後、重い口を開いた。
「実はね・・・・・彼女・・・亡くなったのよ。」
「・・・・・え・・・・?」
真琴はおばさんが今、何を言ったのかわからなかった。
(彼女が・・・・・亡くなった・・・・?・・・・ナ・・ク・・ナ・・ッ・・タ・・・?彼女が・・・?)
真琴は何度もその言葉を心の中で反芻した。
「子供達にとてもよく好かれてたのにねぇ、人間としてもすばらしい人だったのに・・娘さんも一人残されてかわいそうに・・。本当に悔やまれるわ・・。五日前にね、交通事故に巻き込まれたのよ。」
「・・・・・・・。」
真琴は呆然として何が起こったのかわからず、空ろな表情で壊れた機械のように、同じ言葉を心内で繰返していて、外界との意識が完全に遮断されたように周囲の音が、真琴の耳にはほとんど届いてこなかった。おばさんが何か話し続けていたが、まともに聞いていなかった。いや聞いていたがまったく耳に入っていなかった。そんな様子の真琴に気づいたのかおばさんが真琴の肩を揺すった。
「ちょっと、あなた、大丈夫?気分が悪いの?顔色が悪いわよ。」
真琴の顔は血の気がすっかり引いて、生気が吸い取られたように真っ青になっていた。
「嘘・・ですよね・・・?そんなこと・・あるわけ・・・ねえ、嘘ですよね?!」
真琴は表情を歪めおばさんの腕をつかんで、強く揺さぶって言った。とてもそんなこと信じられない。何かの悪夢に決まっている。しかし・・おばさんは悲しそうに言った。
「残念だけど・・本当のことよ。私は彼女の御通夜にも、御葬式にも出たし、その時に棺に入れられた彼女の姿を見たんだから。」
「そんな・・・・。」
真琴はその場にずるずると崩れ落ちた。体の震えが止まらない。信じられない。もうこの世に彼女はいないなんて。真琴の中の正常という名のパズルが音を立てて壊れていく。大丈夫?とおばさんが慌ててかがんで真琴の顔を覗き込んでいた。
真琴は陽があと少しすれば沈んでしまう頃、オレンジ色に染まった歩道を走っていた。彼女が死んでしまったなんて嘘だ、信じられない、きっとこれは何かの間違いなんだ。数日前に真琴は彼女に会った。そう、先週の日曜日にピアノの指導をしてもらい、その時に彼女と真琴の誕生日であった火曜日に会う約束をした。ケーキ店で彼女はいつも変わらない笑顔で真琴の誕生日をこっそり内緒にして驚かそうとして祝ってくれた。
プレゼントまでしてくれた。その日、真琴は彼女と笑顔で別れた。笑顔で手を振って、また日曜日に会いましょうねと言ってくれた姿を今もはっきりと思い出すことができる。彼女が亡くなってしまったというなら、あれが真琴と彼女の最後の別れだったというのか・・・。ピアノ教室のおばさんは、事故後にお通夜、御葬式が終わったと言っていた。
今日日曜日まで真琴は何も知らずに過ごしてきたのか。大切な人の死も知らず、御葬式に出て天国へ登っていく彼女を見送ってあげることもできなかったというのか。いや予感はあった。前にみた悪夢がそうだったのかもしれない。
道行く途中で母親と手をつないで楽しそうに話しながら歩いている小さな女の子や、子供をつれた家族とすれ違った。皆、気持ちが高ぶって表情をこわばらせている真琴とは対照的に何事もない、何の悲しみも絶望もない、平和な顔をしている、いつもと変わらない日常を送り、笑顔で笑っている。
まるで世界と真琴をつなぐものが、完全に断ち切られたような感覚を受けた。目に映るもの全てが現実とは思えない、何もかもが嘘のようにでたらめに見え、その存在が信じられなかった。真琴の身に何が起こったかなどは、関係なく世界はただそこに変わらず無常に存在していた。
道幅の広い坂にさしかかり、真琴はスピードを緩めずに駆け上がった。ゆるやかにカーブを描いた坂を上りきると、夕暮れに照らされ、大きな影を落としているお寺が見えた。歩いて行くと地面がアスファルトから砂利を敷き詰められた道に変わった。お寺は周囲を石材で作られた塀に囲まれていた。真琴は入り口で立ち止まり、荒く息を乱して、中を見つめた。呼吸を整え寺の敷地内に足を踏み入れた。石畳の道を行くと左にお寺があって、正面には低い塀で囲まれた中に立つたくさんの細長い石柱群が見えた。真琴は小さな塀を越えて中に入っていった。
真琴は息を飲んで端から一つまた一つと石柱に刻ませた名前を見て歩いた。胸の鼓動が高まっていく。知らない名前が続く。石柱の前にある祭壇には花やお供えものがあった。しばらく歩いて中ほどまで来た時、真琴は立ち止まった。目の前にした石柱に真琴は知っている人間の名前を見つけた。
カラスが赤く染まった大空を鳴きながら羽ばたいていくのが聞こえた。真琴の耳に遠のいていくその声は残響音として耳にこだまして残った。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
そこには真琴にピアノを教えてくれた彼女の名前がその夫の名前と共に刻まれていた。初めて真琴は真実を、彼女が死んで、もうこの世を去ってしまったという事実を突きつけられた。教室のおばさんがこの寺のお墓に火葬された彼女の遺骨が納められたこと教えてくれたのでここまで夢中で走ってきた。ここに来るまでは、この目で彼女が亡くなったことを知るまでは信じられなかった。
だが今はもう真琴の中で、彼女の死が徐々にリアルにその輪郭をはっきりとさせるようになってきていた。彼女のお墓の前で真琴は膝をついた。お墓に刻まれた彼女の名前を見つめていると真琴の頬を涙が静かにつたった。うめくような声が漏れ、次第に大きくなり声を上げて泣いた。赤く染まったお寺の敷地内、静かな静寂の中で真琴の泣く声だけが取り残されたように響いていた。涙が溢れ出し止らなかった。
「私の側にいてくれるって言ったのに・・・。せっかく出会えたのに・・・。どうして?こんなにも大好きになれたのに・・・。」
母、父に続いて大切な人がまた一人、真琴の元から離れていった。神様は真琴を不幸にしたいんだろうか。ただ大好きな人が側にいてくれるだけ・・ただそれだけで真琴は幸せを感じる事が出来るのに・・他には何もいらない・・なのに神様はそれすらも許してくれないのか、与えてはくれないのか、真琴から無情にも取り上げてしまうのだろうか。真琴には幸せになる資格が無いというのか。
愛される資格がないというのか。この時真琴はこんな辛い気持ちになるならもう人を好きになんかならない、愛しなどしないとかたく誓った。真琴はまた一人ぼっちになってしまった。
「私はもう人を愛さない、愛すれば失った時の辛さに耐えられない。私はもう人を信じたりしない、人を信じれば母が私にしたように裏切られる、捨てられる、辛い思いをすることになる。もう人に愛されなくていい、信じられなくてもいい・・・。私は一人ぼっち・・そうだ一人がいい、一人ならこんなに苦しむこともなくなるんだ。」
真琴はあらゆる種類の愛を捨てようと思った。一人孤独の道を歩むことを決めた。祭壇にはお花が供えられ御線香が立てられていた。まだ煙を揺らめかせていて、誰かがここにお参りに来てそんなに時間が立っていないようだった。よく見ると花も新しかった。
真琴は首からさげたペンダントを手のひらに乗せた。ペンダントに真琴の涙が落ちた。青い宝石は涙に濡れて西から差し込んでくる夕陽に儚く輝いていた。
一体どんな子だろうとわくわくした。真琴のためにマフラーまで編んでくれた子だ。心優しい子に決まっている。何といってもあの人の一人娘なんだし。ピアノ教室にたどり着き、何のためらいもなく入っていこうとした足を、目に飛び込んできた光景のために即座に止めた。
後ずさりピアノ教室から少し離れて隠れるように屈みこんだ。ピアノ教室にいたのは彼女ではなく、別の講師の女性だった。年齢は五十代ぐらいだろうか、ベテランのような雰囲気を醸し出していて真琴は初めてここに来た時に一度だけ見たことがあった。真琴は首を傾げた。
いつも日曜日のこの時間はこのペンダントをくれたあの人がいるはずなのに姿が見えない。もしかして教室の奥の部屋にいるのか、としばらく待ってみたが彼女が奥から出てくる様子もない。教室内に彼女はいないらしい。出てきたとしても今他の講師がいるので真琴は教室に入っていくことはできない。今日は何か急用ができて教室にこれなかったのか。
いや彼女ならきっと用事ができたら真琴にきちんと何らかの方法で教えてくれるに違いない。彼女から連絡は何もなかったので用事か何かで遅れているのだろうかとしばらく待つことにした。しかしいくら待っても、時が過ぎても彼女が現れることはなかった。真琴はだんだん不安になってきた。こんなことは今まで一度もなかった。毎週日曜日、真琴は彼女に会えるのを楽しみに、欠かさずここに足を運んでいた。
彼女に何か合ったのだろうかと心配になってきた。ふいに真琴の頭の中を数日前に見た悪夢が不吉な映像としてかすめていった。荒廃したような真琴の住んでいた街で、母だった人が彼女に姿が変わり、真琴を見捨てて離れていく夢・・・・真琴の小さな胸を発作的に恐怖と不安が襲い、いてもたってもいられなくなった。このままここで待っていても仕方ないと思い、首からさげたペンダントを握りしめた。立ち上がりピアノ教室の方へと歩き出した。心を静めようとしても胸の高鳴りを抑えることはできない。
入り口まで来ると、ガラス越しに教室内にいる講師のおばさんと目が合った。真琴は会釈してドアを開けて中に入った。
「こんにちは。あの、聞きたいことがあるんですが。」
恐る恐る話し出した真琴を、おばさんは上から下まで観察するように見つめてから言った。
「こんにちは。あなた、初めて見る顔だけど。ここのレッスンに通ってる子じゃないわね。どなたかしら?」
真琴はびくりと体を震わせて言葉に詰まった。どういえばいいのか、まさか毎週日曜日にあの彼女に無償でピアノを教えてもらっているとは言えない。
「あ、あの・・私、※※施設で生活してる者なんです・・。以前ここの講師の方が演奏しに施設に来てくださったんですが。今日はその方にお会いしたくて来たんですけど・・・。」
来た理由は嘘だが、言ったことは事実だった。講師のおばさんは、ああ、あの施設の、と納得したように頷いた。それを見て真琴はほっとした。
「そう・・・・・彼女に会いに来たの・・・・。」
おばさんは急に顔を曇らせてつぶやいた。おばさんの沈んだ表情を見て真琴は嫌な予感がした。本能が告げている。何も聞かずここから今すぐ逃げ出したい気持ちになった。
真実を知ることを真琴の体が強く拒んでいる。しかしそんな真琴の心とは裏腹に真琴の口は無意識に動いた。声が震える。
「あの人は今日・・・ここには来られないんですか・・?」
おばさんは言いにくそうにした後、重い口を開いた。
「実はね・・・・・彼女・・・亡くなったのよ。」
「・・・・・え・・・・?」
真琴はおばさんが今、何を言ったのかわからなかった。
(彼女が・・・・・亡くなった・・・・?・・・・ナ・・ク・・ナ・・ッ・・タ・・・?彼女が・・・?)
真琴は何度もその言葉を心の中で反芻した。
「子供達にとてもよく好かれてたのにねぇ、人間としてもすばらしい人だったのに・・娘さんも一人残されてかわいそうに・・。本当に悔やまれるわ・・。五日前にね、交通事故に巻き込まれたのよ。」
「・・・・・・・。」
真琴は呆然として何が起こったのかわからず、空ろな表情で壊れた機械のように、同じ言葉を心内で繰返していて、外界との意識が完全に遮断されたように周囲の音が、真琴の耳にはほとんど届いてこなかった。おばさんが何か話し続けていたが、まともに聞いていなかった。いや聞いていたがまったく耳に入っていなかった。そんな様子の真琴に気づいたのかおばさんが真琴の肩を揺すった。
「ちょっと、あなた、大丈夫?気分が悪いの?顔色が悪いわよ。」
真琴の顔は血の気がすっかり引いて、生気が吸い取られたように真っ青になっていた。
「嘘・・ですよね・・・?そんなこと・・あるわけ・・・ねえ、嘘ですよね?!」
真琴は表情を歪めおばさんの腕をつかんで、強く揺さぶって言った。とてもそんなこと信じられない。何かの悪夢に決まっている。しかし・・おばさんは悲しそうに言った。
「残念だけど・・本当のことよ。私は彼女の御通夜にも、御葬式にも出たし、その時に棺に入れられた彼女の姿を見たんだから。」
「そんな・・・・。」
真琴はその場にずるずると崩れ落ちた。体の震えが止まらない。信じられない。もうこの世に彼女はいないなんて。真琴の中の正常という名のパズルが音を立てて壊れていく。大丈夫?とおばさんが慌ててかがんで真琴の顔を覗き込んでいた。
真琴は陽があと少しすれば沈んでしまう頃、オレンジ色に染まった歩道を走っていた。彼女が死んでしまったなんて嘘だ、信じられない、きっとこれは何かの間違いなんだ。数日前に真琴は彼女に会った。そう、先週の日曜日にピアノの指導をしてもらい、その時に彼女と真琴の誕生日であった火曜日に会う約束をした。ケーキ店で彼女はいつも変わらない笑顔で真琴の誕生日をこっそり内緒にして驚かそうとして祝ってくれた。
プレゼントまでしてくれた。その日、真琴は彼女と笑顔で別れた。笑顔で手を振って、また日曜日に会いましょうねと言ってくれた姿を今もはっきりと思い出すことができる。彼女が亡くなってしまったというなら、あれが真琴と彼女の最後の別れだったというのか・・・。ピアノ教室のおばさんは、事故後にお通夜、御葬式が終わったと言っていた。
今日日曜日まで真琴は何も知らずに過ごしてきたのか。大切な人の死も知らず、御葬式に出て天国へ登っていく彼女を見送ってあげることもできなかったというのか。いや予感はあった。前にみた悪夢がそうだったのかもしれない。
道行く途中で母親と手をつないで楽しそうに話しながら歩いている小さな女の子や、子供をつれた家族とすれ違った。皆、気持ちが高ぶって表情をこわばらせている真琴とは対照的に何事もない、何の悲しみも絶望もない、平和な顔をしている、いつもと変わらない日常を送り、笑顔で笑っている。
まるで世界と真琴をつなぐものが、完全に断ち切られたような感覚を受けた。目に映るもの全てが現実とは思えない、何もかもが嘘のようにでたらめに見え、その存在が信じられなかった。真琴の身に何が起こったかなどは、関係なく世界はただそこに変わらず無常に存在していた。
道幅の広い坂にさしかかり、真琴はスピードを緩めずに駆け上がった。ゆるやかにカーブを描いた坂を上りきると、夕暮れに照らされ、大きな影を落としているお寺が見えた。歩いて行くと地面がアスファルトから砂利を敷き詰められた道に変わった。お寺は周囲を石材で作られた塀に囲まれていた。真琴は入り口で立ち止まり、荒く息を乱して、中を見つめた。呼吸を整え寺の敷地内に足を踏み入れた。石畳の道を行くと左にお寺があって、正面には低い塀で囲まれた中に立つたくさんの細長い石柱群が見えた。真琴は小さな塀を越えて中に入っていった。
真琴は息を飲んで端から一つまた一つと石柱に刻ませた名前を見て歩いた。胸の鼓動が高まっていく。知らない名前が続く。石柱の前にある祭壇には花やお供えものがあった。しばらく歩いて中ほどまで来た時、真琴は立ち止まった。目の前にした石柱に真琴は知っている人間の名前を見つけた。
カラスが赤く染まった大空を鳴きながら羽ばたいていくのが聞こえた。真琴の耳に遠のいていくその声は残響音として耳にこだまして残った。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
そこには真琴にピアノを教えてくれた彼女の名前がその夫の名前と共に刻まれていた。初めて真琴は真実を、彼女が死んで、もうこの世を去ってしまったという事実を突きつけられた。教室のおばさんがこの寺のお墓に火葬された彼女の遺骨が納められたこと教えてくれたのでここまで夢中で走ってきた。ここに来るまでは、この目で彼女が亡くなったことを知るまでは信じられなかった。
だが今はもう真琴の中で、彼女の死が徐々にリアルにその輪郭をはっきりとさせるようになってきていた。彼女のお墓の前で真琴は膝をついた。お墓に刻まれた彼女の名前を見つめていると真琴の頬を涙が静かにつたった。うめくような声が漏れ、次第に大きくなり声を上げて泣いた。赤く染まったお寺の敷地内、静かな静寂の中で真琴の泣く声だけが取り残されたように響いていた。涙が溢れ出し止らなかった。
「私の側にいてくれるって言ったのに・・・。せっかく出会えたのに・・・。どうして?こんなにも大好きになれたのに・・・。」
母、父に続いて大切な人がまた一人、真琴の元から離れていった。神様は真琴を不幸にしたいんだろうか。ただ大好きな人が側にいてくれるだけ・・ただそれだけで真琴は幸せを感じる事が出来るのに・・他には何もいらない・・なのに神様はそれすらも許してくれないのか、与えてはくれないのか、真琴から無情にも取り上げてしまうのだろうか。真琴には幸せになる資格が無いというのか。
愛される資格がないというのか。この時真琴はこんな辛い気持ちになるならもう人を好きになんかならない、愛しなどしないとかたく誓った。真琴はまた一人ぼっちになってしまった。
「私はもう人を愛さない、愛すれば失った時の辛さに耐えられない。私はもう人を信じたりしない、人を信じれば母が私にしたように裏切られる、捨てられる、辛い思いをすることになる。もう人に愛されなくていい、信じられなくてもいい・・・。私は一人ぼっち・・そうだ一人がいい、一人ならこんなに苦しむこともなくなるんだ。」
真琴はあらゆる種類の愛を捨てようと思った。一人孤独の道を歩むことを決めた。祭壇にはお花が供えられ御線香が立てられていた。まだ煙を揺らめかせていて、誰かがここにお参りに来てそんなに時間が立っていないようだった。よく見ると花も新しかった。
真琴は首からさげたペンダントを手のひらに乗せた。ペンダントに真琴の涙が落ちた。青い宝石は涙に濡れて西から差し込んでくる夕陽に儚く輝いていた。