第34話 あの人が見に来てくれた

文字数 3,575文字

参観では数学の授業が行われた。教室の後ろの方では既に生徒達の母親が立っていて我が子の授業を受ける姿を見守っていた。中には父親もいたが、その数は少ない。どの母親も顔を綺麗にお化粧し、服装はおしゃれをしている。生徒の中には落ち着かない子もいて後ろをちらちら振り返っている。自分の親が来てくれているのか、気になるのだろう。加奈もちらりと後ろを振り返った。



見知らぬ大人たちが大勢詰めかけている。その中にもちろん加奈の母親の姿はない。加奈は大きくため息をついた。参観日というのは改めて自分には親はもういないという辛さを目の前に突きつけられるような感覚にさせられる行事だった。生徒達は皆生き生きとした顔つきをしている。親にいいところを見せようと張り切っているんだろうか。



自分は頑張っても、見てくれる人はいないんだから、この授業は控えめに大人しくしていようと思った。今の加奈にとって参観日という行事はまったく関係のないものだった。

「本日は父兄の皆様、お忙しい中、よくお越しくださいました。今日はしっかりとお子さん達の授業を受けて、頑張っている姿を見てあげてください。」



先生が授業を始める前に父兄らに挨拶をして一礼すると、彼女達も皆揃って頭を下げた。挨拶もそこそこにまず先生が教科書を読んでから、それを説明するために、黒板に板書きをした。問題の解き方を例題を通して説明した後、練習問題を出してわかる人はいますか、と生徒達に質問した。するとほとんどの生徒が元気よく手を上げる。



上げていないのは加奈と神楽坂、後はスポーツや遊びは得意だが勉強が苦手で本当にわからないという生徒二、三人だけだった。加奈はわかっていても手をあげなかった。目立つことが嫌いだったので普段でもあまり積極的に授業に参加することはなかった。だがもし、ありえないがこの場に母がいたなら、恥ずかしい気持ちを我慢してでも母にいい所を見せようと無理して張り切って手を上げていたに違いない。亜沙子の方を見ると、淡々とつまらなそうな顔をして答え合わせを黙々としていた。



加奈も人のことは言えないが、元気な生徒達の中にあって彼女はとても浮いているように見えた。次々と生徒達が先生に指名されて黒板の前に出て問題を解いていく。答えが合っていると正解ですと先生が拍手すると父兄らもそれに習うように喝采を送った。問題を解いた生徒達も親の前でいい所を見せれたと満足そうで誇らしげだった。授業が進み、残り二十分ぐらいになったところで、先生が手を叩いて言った。



「それでは前に授業でやった時、最後に皆に出した宿題がありましたね。その答え合わせを今からします。皆さんやってきましたか?一問ずつわかる人にやってもらいますからね。」

前の授業で出た宿題は今日この日の参観日までにやってくるようにと先生は言っていた。加奈も神楽坂と休み時間などに一緒に解いた。



難しい応用問題がいくつかあって加奈が解けないで、困っていると神楽坂がヒントを教えてくれて、加奈はそれでスムーズに解くことが出来て驚いた。だから宿題の回答は全て埋まっている。先生が黒板に問題を書いていくと、生徒達の方に向き直りさっきと同じようにわかる生徒を当てようとした。一問ずつそれぞれ指名された生徒が解いていく。正解すると先生が赤いチョークで丸していった。ここでも加奈は大人しくしていようと思った。



どうせ誰も加奈のことなど見ていないのだから、頑張っても誉めてくれる人なんていないんだから、と沈んだ表情で教室の後ろを振り返った時だった。ちょうど教室の後ろのドアから加奈のよく知っている人物が入ってくるところだったのだ。背が小さく少し腰が傾いていて、白髪のその人物はニコニコと笑顔で笑いながら教室に入ってきた。



その人は既に来ていたおばの姿を見つけると側まで行って、一言程小声で話してからおばの側に立った。ハンカチで額をぬぐいながら、その人は生徒達の中から誰かを探すように教室内を見渡していると、じっとその人の様子を見守っていた加奈と目が合った。その人、おばあちゃんは加奈の姿を確認すると、笑っていた顔を更に満面の笑顔にして加奈に小さく手を振ってくれた。



愛とは席が離れているし、まして加奈の周りの生徒におばあちゃんの知り合いがいるわけではないので、その笑顔は紛れもなく加奈に向けられたものだった。まるで直接言われたわけではないのに、加奈ちゃん、あなたのこと見に来たわよ、とおばあちゃんに言われたような気がした。おばあちゃんの何の不純物もないそのまっさらな笑顔に、加奈も思わず頬が緩んで微笑み軽く手を控えめに振って応えた。加奈は前を向くと、心の中に素直に喜びの気持ちがこみ上げてきた。



嬉しい・・・おばあちゃんが見に来てくれたのかな。愛を見に来たついでに加奈のことも見に来たのか・・・いやそんなついでみたいな気持ちなら、加奈にあんな笑顔を振りまいてくれるはずない。きっと加奈のこときちんとみに来てくれたのだ。ついでで・・・いやついででさえみてくれないのはおばの方だった。おばあちゃんとさっき笑顔を交わした時、横に立っていたおばとも目が合ったが、彼女は冷酷な目で加奈を見るとふん、と顔を逸らした。



お前なんてどうでもいいのよ、と言われた気がした。おばあちゃんとは大違い。先生が黒板の板書きを消し、新しい問題を書き始めていた。加奈は迷った。どうしよう、おばあちゃんにみてもらうために手を上げようか・・。でも一人張り切って、おばあちゃんの反応がなかったら馬鹿みたいだし・・・。そうこう考えていると先生は問題を書き終えた。



「ではこ問題がわかる人は手を上げてください。」

先生のその声と同時に加奈の周りの生徒達がいっせいに手を上げる。その手はどこまでもまっすぐでぴんと天井に向かって伸ばされ、思い迷っている加奈の心情とは正反対だった。ここで加奈が問題を解いたら、おばあちゃんは誉めてくれるのかな・・・気後れして戸惑った表情のまま、加奈は教室後方に立っているおばあちゃんの様子をうかがった。何とおばあちゃんはじっと加奈の方を見ていて加奈は驚いた。先程の笑顔とはうって変わって、少し心配そうな顔で加奈を見つめている。



それはどういう意味の表情なんだろう。ほとんどの生徒達が手を上げている中で、上げていない加奈を心配してくれているんだろうか。まるで皆は問題を解けるのに加奈ちゃんは解くことができないの?授業についていけてるの?と。加奈の心は決まった。



おばあちゃんに誤解されていらぬ心配をかけてはいけない。前を向きぎこちなくだったが手を上げた。頼りなく恐る恐るといった感じだったが、どの生徒にあてようかと教室内を見渡していた先生がおや、と目を丸くして少し驚きの表情をした。普段は授業に参加することに消極的な加奈が手を上げていることに気がついたのだ。加奈の胸はどきどきと高鳴って、上目遣いに先生を見ると目が合った。先生は加奈を見つめたまま、微笑むと言った。



「はい、じゃあ、藤島さん解いてください。」

先生は加奈が初めてこうして積極的に授業に参加してくれたことが嬉しいのだろうか。加奈はまさかいきなり当てられるとは思っていなかったので、名前を呼ばれて飛び上がりそうになったが、何とか体を抑えて上ずった声で返事をした。椅子を引いて立ち上がり黒板に向かう。その足取りは緊張でふらふらと危なげだった。何とか黒板の前まで来ると先生がチョークを差し出して片目をつむり小声で頑張って、と励ましてくれた。



おばあちゃんを安心させるためにも、きちんと解いて正解しなくちゃ。かちかちになりながらも何とか黒板に回答を書いて席に戻った。

「はい、よく出来ました。正解です。」



加奈の回答をわずかであるが心持、大きく赤のチョークで丸してくれた。父兄らから拍手が起って、加奈は俯いて顔が赤くなった。恐る恐る後ろを振り返ると、後ろで見てくれていたおばあちゃんが満面の笑顔で拍手して何度も頷いていた。恥ずかしさと嬉しさが混じった何とも言えない気分になり、頬が火照った。良かった。少し勇気を出したかいがあったと思った。



加奈のこと見てくれて誉めてくれたんだ。母ではなかったけれど、とても幸せな気持ちになった。おばはむすっとしていた。問題が最後の方に進んでいくと難易度が上がっていき、先生は言った。

「ここからは応用問題です。難しかったから出来なかった人もいると思いますが、答え合わせの時に、よく解き方を聞いていてくださいね。」



先生が黒板の問題を書き上げると生徒達がそれを見て、顔をしかめた。解き方がわからないので、答えられないもどかしさなのだろうか。ほとんどの生徒がそんなお手上げという様子の中、愛が自身満々の顔を見せていて神楽坂は済ました顔で鉛筆を走らせていた。
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