第6話 新しいピアノ曲
文字数 3,551文字
生徒たちがやってくる直前まで彼女は真琴にピアノを教えてくれた。外はわずかに陽が陰っていた。帰り際に彼女は教えてくれた曲の楽譜のコピーをくれた。
「どうもありがとうございました。」
真琴は笑顔で教室の入り口に立って彼女に深く頭を下げてお礼を言った。
「今日はおばさんにピアノを教えてもらえて、私本当に嬉しかったです。ますますピアノが好きになりました。」
「ふふふ、それはよかったわ。家でも練習してみてね。真琴ちゃんならきっと素敵な演奏が出来るようになるわ。」
「はい、うまく弾けるように私、がんばってみますね。」
真琴が頷いて答えると彼女は話題を変えた。
「ところで真琴ちゃん、ここのピアノ教室に通ってみてはどうかしら?土曜日と日曜日に私がここで教えてるんだけれども、真琴ちゃんがここに通えば私が教えてあげられるしいいと思うんだけれど。」
真琴は言葉に詰まった。施設で面倒を見てもらっている身の真琴がピアノ教室に通うことは無理だった。
いくら真琴がピアノを習いたくても施設がお金を出してくれるわけはない。そんなことをすれば、他の孤児たちも習い事をしていいことになって収集がつかなくなってしまう。真琴だけ特別扱いで許可してもらうことは不可能だった。
俯いて表情を曇らせていると彼女がどう解釈したのか慌てたように言った。
「あ、これは別に無理に教室に入れって言ってるんじゃないのよ。ただあなたの演奏聴いていて思ったんだけど、ほとんど独学でそこまで弾けるようになったのは正直すごいわ。なかなかそういう子はいないのよ。だからきちんと指導者に教えてもらえばもっと上達すると思うの。」
「あの・・私の家・・・貧乏なんで・・月謝が払えないから・・・通うのはちょっと無理です・・折角すすめてくれたのにごめんなさい。」
真琴は精一杯の思いつける嘘をついた。施設で暮らしているとは何だか彼女に言えなかった。
自分は不幸であると宣言するようで嫌だった。それならばまだ貧乏でも両親がいると思われるほうがましだった。
彼女には本当のことを知られたくない。彼女の優しい表情を曇らせてしまいそうで真琴はそんなの見たくなかったのだ。
「まあ・・そうだったの・・・知らないことだったとはいえごめんなさいね・・別にあなたが謝ることじゃないのよ・・・私が勝手に言い出したことなんだから・・でも残念ね。」
彼女は本当に心底残念そうな顔で言った。それは新しい生徒を取れなくて残念に思っているとかではなく、本当に真琴にピアノを教えることが出来ないことを惜しく思っているように、真琴には映った。
「あつかましいお願いなんですけど・・・教室に通うのは無理だけど、練習して上達した演奏を聴いてもらいにまたここに来てもいいですか?」
すがるような思いで真琴は彼女に頼んでみた。彼女は微笑んで言った。
「もちろん、いいわよ。真琴ちゃんがどれだけ上手になるか楽しみだわ。是非また来てね。あ、でもなるべく今日みたいな私しかいない日曜の早い時間がいいかしら、他のピアノの先生に見つかるとちょっと面倒だからそれだけ気をつけてね。」
彼女の言葉を聞いて真琴は胸を撫で下ろした。教えてもらうことは無理だけれど、練習してうまくなった演奏を聴いてもらえるだけでも嬉しかった。彼女はしばらく考え込むような表情になってからポンと手をたたいて何かひらめいたように言った。
「そうだ、真琴ちゃん、毎週日曜日のお昼にここに来れる?」
「はい、大丈夫ですけど・・・。」
真琴はおずおずといった感じで頷く。
「本当はこんなこといけないんだけど、日曜日の昼から少しだけど誰もいない時間、真琴ちゃんにピアノを教えてあげるわ。真琴ちゃんがよかったらだけど。」
「是非私、おばさんに教えて欲しいですけど・・・でも私月謝払えないですよ?」
「月謝はいらないわ、でもこれは誰にも内緒だからね?」
口元に一指し指を立てて彼女はいたずらっぽく微笑んだ。
「でも、いいんですか、そんなこと・・・?」
真琴が不安そうに聞くと彼女は真琴を安心させるように笑顔になって言った。
「いいのよ。私が言い出したことだし。ばれても私が全部責任取るから、あなたは何も気にしなくていいわ。個人的に私の意志で指導するって思ってくれていいわよ。真琴ちゃんのピアノ、いいもの持ってると思うのよね。だからこのまま放って置けなくて。私自身何だかどうしても教えてあげたくなっちゃったのよ。一人のピアノ講師として教育魂がみなぎってくる感じかしら?」
彼女が腕っぷしを見せつける様な格好をして見せておかしそうに笑ったので真琴も笑顔になって笑った。
彼女に音楽教室でピアノを教えてもらってから、真琴は学校から帰ると脇目も振らず施設でピアノに向かい、教えてもらった曲を練習した。彼女のように弾けるようになりたい一心で練習に打ち込んだ。早く上手く弾けるようになって彼女に聴いてもらいたい。
この温かな曲と共に彼女の存在は真琴の中で眩しく光り輝いていて、既に母も父も失った孤独である真琴にとって、暗闇を照らすように射してくる希望の光になっていた。彼女のことを心の中で思うと真っ暗闇の中、ろうそくの優しい光りが灯るように幸せな気持ちになる。
絶望の色に染め上げられて色あせて見えた視界に映る景色が色鮮やかになって輪郭をくっきりとさせた。心が変わるだけでこうも違ってくるのかと真琴自身驚いていた。それだけ彼女の存在が真琴の中で大きくなっていたのだ。
ぎこちないけれどある程度弾けるようになると施設の職員のおばさんが聴いていて、あら、綺麗な曲ね。真琴ちゃん、明るい曲弾けるじゃないとほめてくれた。
日曜日にはお昼ごはんを食べると、彼女との約束どおりピアノ教室に向かった。彼女はいつも笑顔で真琴を歓迎してくれた。真琴の豊富でのめりこむような練習量と彼女の上手な指導で真琴のピアノの腕は見る見ると上達していった。
「最初の頃に比べて真琴ちゃんの演奏とってもよくなったわよ。技術も上がったけれど、何より演奏に真琴ちゃんの感情表現がよく出るようなったことが大きいわ。」
「ありがとうございます。これもみんなおばさんが熱心に教えてくれたおかげです。」
お互いに笑顔を交わしあう。彼女に出会えてこうして幸福な時間を共有できたからこそ、忘れかけていた、幸せを感じる気持ちを思い出して、真琴は明るく希望に満ちた曲を弾きこなせるようになったと強く実感していたが、彼女に口に出してそういうのは何だか照れくさいし恥ずかしかったので心から感謝していたが、喜んで御礼を言うだけに留めた。
レッスンの合間には彼女とたわいない話をして笑い合いささやかな時間を過ごした。彼女の娘のことや、今はもう亡くなってしまった旦那さんのことなどいろいろなことを真琴に話してくれた。たくさん話を聞くことで彼女のことがどんどんわかってきて真琴は嬉しかった。
彼女のことをもっと知りたいと素直に思った。優しく魅力的な彼女を取り巻く人達のことを知りたかった。その一方、真琴は自分のことはあまり話さなかった。母に捨てられて父が亡くなったことを言うと、この貴重なひとときが壊れてしまうような気がしていたから。
彼女には同情されたくないからなのかは真琴にもよくわからなかった。たぶん真実を全て話してしまうと真琴の心のたがが外れてしまって真琴の全てを受け入れて欲しいと、彼女に泣いてすがってしまいそうになる気がいていた。いくら彼女が優しい人だとは言え、他人である。
真琴なんかのわがままで困らせて迷惑をかけてはならないと思った。今のような関係でいいのだ。そう、それだけで真琴は充分なんだ・・・・。間違っても高望みなんてしてはいけない。
「真琴ちゃんのご両親はどんな方たちなの?」
「えと・・そうですね。ごく普通のどこにでもいるお父さんとお母さんですよ。」
「そう。真琴ちゃんはお父さんとお母さんの事、好き?」
突然の意表を突かれる様な質問に真琴は動揺した。
両親のことを聞かれて真琴の脳裏に真琴を置いて出て行った母と真琴を残しこの世を去っていった父の姿が瞬時によみがえった。頭がふらつき今にも崩れ落ちてしまいそうになる体を何とか堪えて真琴は強く言った。
「もちろん、大好きですよ。」
そう、と満面の笑みを浮かべて彼女は頷いた。その後も何度か彼女に真琴の両親はどんな人達なのか、家族との楽しい思い出話などを聞かれたが、真琴はあいまいに答えるだけだった。
嘘の作り話もしたかもしれない。そうこうやり取りしているうちに無理が生じたのか、彼女の表情に微妙な弱々しい笑みが浮かんでいた。嘘をついているのが気づかれたのか、しかし彼女は何も言及しては来なかった。あまり真琴が家族の話をしたくないのを察してくれたのかはわからなかった。
「どうもありがとうございました。」
真琴は笑顔で教室の入り口に立って彼女に深く頭を下げてお礼を言った。
「今日はおばさんにピアノを教えてもらえて、私本当に嬉しかったです。ますますピアノが好きになりました。」
「ふふふ、それはよかったわ。家でも練習してみてね。真琴ちゃんならきっと素敵な演奏が出来るようになるわ。」
「はい、うまく弾けるように私、がんばってみますね。」
真琴が頷いて答えると彼女は話題を変えた。
「ところで真琴ちゃん、ここのピアノ教室に通ってみてはどうかしら?土曜日と日曜日に私がここで教えてるんだけれども、真琴ちゃんがここに通えば私が教えてあげられるしいいと思うんだけれど。」
真琴は言葉に詰まった。施設で面倒を見てもらっている身の真琴がピアノ教室に通うことは無理だった。
いくら真琴がピアノを習いたくても施設がお金を出してくれるわけはない。そんなことをすれば、他の孤児たちも習い事をしていいことになって収集がつかなくなってしまう。真琴だけ特別扱いで許可してもらうことは不可能だった。
俯いて表情を曇らせていると彼女がどう解釈したのか慌てたように言った。
「あ、これは別に無理に教室に入れって言ってるんじゃないのよ。ただあなたの演奏聴いていて思ったんだけど、ほとんど独学でそこまで弾けるようになったのは正直すごいわ。なかなかそういう子はいないのよ。だからきちんと指導者に教えてもらえばもっと上達すると思うの。」
「あの・・私の家・・・貧乏なんで・・月謝が払えないから・・・通うのはちょっと無理です・・折角すすめてくれたのにごめんなさい。」
真琴は精一杯の思いつける嘘をついた。施設で暮らしているとは何だか彼女に言えなかった。
自分は不幸であると宣言するようで嫌だった。それならばまだ貧乏でも両親がいると思われるほうがましだった。
彼女には本当のことを知られたくない。彼女の優しい表情を曇らせてしまいそうで真琴はそんなの見たくなかったのだ。
「まあ・・そうだったの・・・知らないことだったとはいえごめんなさいね・・別にあなたが謝ることじゃないのよ・・・私が勝手に言い出したことなんだから・・でも残念ね。」
彼女は本当に心底残念そうな顔で言った。それは新しい生徒を取れなくて残念に思っているとかではなく、本当に真琴にピアノを教えることが出来ないことを惜しく思っているように、真琴には映った。
「あつかましいお願いなんですけど・・・教室に通うのは無理だけど、練習して上達した演奏を聴いてもらいにまたここに来てもいいですか?」
すがるような思いで真琴は彼女に頼んでみた。彼女は微笑んで言った。
「もちろん、いいわよ。真琴ちゃんがどれだけ上手になるか楽しみだわ。是非また来てね。あ、でもなるべく今日みたいな私しかいない日曜の早い時間がいいかしら、他のピアノの先生に見つかるとちょっと面倒だからそれだけ気をつけてね。」
彼女の言葉を聞いて真琴は胸を撫で下ろした。教えてもらうことは無理だけれど、練習してうまくなった演奏を聴いてもらえるだけでも嬉しかった。彼女はしばらく考え込むような表情になってからポンと手をたたいて何かひらめいたように言った。
「そうだ、真琴ちゃん、毎週日曜日のお昼にここに来れる?」
「はい、大丈夫ですけど・・・。」
真琴はおずおずといった感じで頷く。
「本当はこんなこといけないんだけど、日曜日の昼から少しだけど誰もいない時間、真琴ちゃんにピアノを教えてあげるわ。真琴ちゃんがよかったらだけど。」
「是非私、おばさんに教えて欲しいですけど・・・でも私月謝払えないですよ?」
「月謝はいらないわ、でもこれは誰にも内緒だからね?」
口元に一指し指を立てて彼女はいたずらっぽく微笑んだ。
「でも、いいんですか、そんなこと・・・?」
真琴が不安そうに聞くと彼女は真琴を安心させるように笑顔になって言った。
「いいのよ。私が言い出したことだし。ばれても私が全部責任取るから、あなたは何も気にしなくていいわ。個人的に私の意志で指導するって思ってくれていいわよ。真琴ちゃんのピアノ、いいもの持ってると思うのよね。だからこのまま放って置けなくて。私自身何だかどうしても教えてあげたくなっちゃったのよ。一人のピアノ講師として教育魂がみなぎってくる感じかしら?」
彼女が腕っぷしを見せつける様な格好をして見せておかしそうに笑ったので真琴も笑顔になって笑った。
彼女に音楽教室でピアノを教えてもらってから、真琴は学校から帰ると脇目も振らず施設でピアノに向かい、教えてもらった曲を練習した。彼女のように弾けるようになりたい一心で練習に打ち込んだ。早く上手く弾けるようになって彼女に聴いてもらいたい。
この温かな曲と共に彼女の存在は真琴の中で眩しく光り輝いていて、既に母も父も失った孤独である真琴にとって、暗闇を照らすように射してくる希望の光になっていた。彼女のことを心の中で思うと真っ暗闇の中、ろうそくの優しい光りが灯るように幸せな気持ちになる。
絶望の色に染め上げられて色あせて見えた視界に映る景色が色鮮やかになって輪郭をくっきりとさせた。心が変わるだけでこうも違ってくるのかと真琴自身驚いていた。それだけ彼女の存在が真琴の中で大きくなっていたのだ。
ぎこちないけれどある程度弾けるようになると施設の職員のおばさんが聴いていて、あら、綺麗な曲ね。真琴ちゃん、明るい曲弾けるじゃないとほめてくれた。
日曜日にはお昼ごはんを食べると、彼女との約束どおりピアノ教室に向かった。彼女はいつも笑顔で真琴を歓迎してくれた。真琴の豊富でのめりこむような練習量と彼女の上手な指導で真琴のピアノの腕は見る見ると上達していった。
「最初の頃に比べて真琴ちゃんの演奏とってもよくなったわよ。技術も上がったけれど、何より演奏に真琴ちゃんの感情表現がよく出るようなったことが大きいわ。」
「ありがとうございます。これもみんなおばさんが熱心に教えてくれたおかげです。」
お互いに笑顔を交わしあう。彼女に出会えてこうして幸福な時間を共有できたからこそ、忘れかけていた、幸せを感じる気持ちを思い出して、真琴は明るく希望に満ちた曲を弾きこなせるようになったと強く実感していたが、彼女に口に出してそういうのは何だか照れくさいし恥ずかしかったので心から感謝していたが、喜んで御礼を言うだけに留めた。
レッスンの合間には彼女とたわいない話をして笑い合いささやかな時間を過ごした。彼女の娘のことや、今はもう亡くなってしまった旦那さんのことなどいろいろなことを真琴に話してくれた。たくさん話を聞くことで彼女のことがどんどんわかってきて真琴は嬉しかった。
彼女のことをもっと知りたいと素直に思った。優しく魅力的な彼女を取り巻く人達のことを知りたかった。その一方、真琴は自分のことはあまり話さなかった。母に捨てられて父が亡くなったことを言うと、この貴重なひとときが壊れてしまうような気がしていたから。
彼女には同情されたくないからなのかは真琴にもよくわからなかった。たぶん真実を全て話してしまうと真琴の心のたがが外れてしまって真琴の全てを受け入れて欲しいと、彼女に泣いてすがってしまいそうになる気がいていた。いくら彼女が優しい人だとは言え、他人である。
真琴なんかのわがままで困らせて迷惑をかけてはならないと思った。今のような関係でいいのだ。そう、それだけで真琴は充分なんだ・・・・。間違っても高望みなんてしてはいけない。
「真琴ちゃんのご両親はどんな方たちなの?」
「えと・・そうですね。ごく普通のどこにでもいるお父さんとお母さんですよ。」
「そう。真琴ちゃんはお父さんとお母さんの事、好き?」
突然の意表を突かれる様な質問に真琴は動揺した。
両親のことを聞かれて真琴の脳裏に真琴を置いて出て行った母と真琴を残しこの世を去っていった父の姿が瞬時によみがえった。頭がふらつき今にも崩れ落ちてしまいそうになる体を何とか堪えて真琴は強く言った。
「もちろん、大好きですよ。」
そう、と満面の笑みを浮かべて彼女は頷いた。その後も何度か彼女に真琴の両親はどんな人達なのか、家族との楽しい思い出話などを聞かれたが、真琴はあいまいに答えるだけだった。
嘘の作り話もしたかもしれない。そうこうやり取りしているうちに無理が生じたのか、彼女の表情に微妙な弱々しい笑みが浮かんでいた。嘘をついているのが気づかれたのか、しかし彼女は何も言及しては来なかった。あまり真琴が家族の話をしたくないのを察してくれたのかはわからなかった。