第24話 あの曲が聴きたくて

文字数 3,495文字

その日の放課後も、真琴は音楽室へ向かった。施設に帰ってピアノを弾いてもよかったが、真琴は放課後、誰もいなくなった音楽室で夕陽に照らされた空間で独り、静かにピアノを弾く感じが好きだった。授業が終わるまでは存在する生徒達のざわめきや喧騒が嘘のようになくなって、学校・・・いや世界には真琴一人だけしかいないというような感覚に真琴は酔いしれる。誰もいない非日常的で幻想的といってもいい空間でピアノを演奏したかった。



音楽室のドアを開けて真琴は中に入った。グランドピアノの側までやってくると机の一つに鞄を置いてピアノの椅子に座った。真琴は蓋を開けて鍵盤を見つめ、ぼんやりと今朝のことを思い出した。柿本蓉介・・・彼の笑顔が頭に浮かんでかき消そうと真琴は慌てて頭を左右に振った。



気を取り直して演奏を始めようとした時、入り口のドアが音を立てて開いた。真琴は驚きで跳ね上がりそうになりながら、ドアの方を見た。

「やっぱり今日も来ていたね。よかった。」



そこには今さっきまで真琴が考えていた人物が立っていた。柿本蓉介は微笑を浮かべて真琴のほうを見ていた。今朝真琴が柿本に怒鳴りつけた後、彼はそれ以上真琴に話しかけてはこなかったが、隣から見られている視線を時々感じていたので近寄ってはこなかったが、今日一日教室で居心地が悪く不快だった。そんなもどかしさも時間がたてばなくなると思っていたが、まさか放課後にこうして彼が音楽室にやってくるなんて予想できなかった。



「あなた、何しに来たのよ。」

真琴は彼に冷たい目つきで突き放すように言った。彼は笑顔を崩さずに音楽室に入って、真琴のほうまでゆっくりと近づいてきた。グランドピアノに一番近い机に持参してきた美術のキャンパスノートを置いて座った。



「君と話がしたくてね。」

「あなたと話すことなんかないわ。」

真琴はつんとすまして即答した。



「君はないかもしれないけれど、僕が話をしたいんだよ。」

思わず彼の顔をまじまじと見た。一体真琴に何の話があるというのだろうか。昨日言葉をわずかしか交わしていない関係なのに。クラスの誰でもなくどうして真琴なのか。



「あなたも物好きね。クラスの連中は私のこと避けてるのに。」

「皆のことは知らないけど、僕自身は君に興味を持ったんだよ。」

「私に・・・・?」



真琴は彼の意外な言葉に正直に驚いた。

「うん、昨日ピアノ演奏を聴いて君の事をもっと知りたいと思うようになったんだ。」

彼がどんな意図で真琴に近づいているか、全く見当がつかなかった。



「昨日は私の演奏に文句をつけてたくせに、興味を持ったの?」

真琴は嫌味のつもりで言ったが彼は全くこたえた様子を見せずに言った。

「だからこそ、僕は君の演奏にひかれたんだよ。」



真琴はますます彼のいわんとしようとしている事がわからなくなってきた。

「君の演奏を僕に聴かせてくれないかい?昨日何曲か聴かせてもらってどれも興味深かったけど、中でも最後に弾いていた曲がよかったなぁ。」



彼が昨日いつから真琴の演奏を聴いていたか知らないが、大切な人から教えてもらった大好きな曲を彼が名指しで気に入ったと言ったことを聞いて真琴は少し動揺した。

まあ、確かにあの曲はどんな人が聴いても大概はよい印象を持つものだろうが・・・。しかし他にも有名で素晴らしいと世間で認知されている曲を何曲かは弾いていたはずである。



なのにあの曲を気に入るなんて。真琴もあの曲が大好きだから彼の気持ちをわからないでもなかった。今はもうこの世にいないあの人が、明るい曲も弾いた方がいいと、真琴に教えてくれた曲。真琴も初めて聴いた時、すごく感銘を受けたのを今でも覚えている。



彼も小さい頃の真琴と同じように感動したのだろうか。あの人の演奏には敵わないが、真琴の演奏に少しでも心を揺すられたのだろうか。心にわずかだが彼に対して親近感が湧いた。

「何曲かでいいから聴かせてくれないかな。聴いたらすぐに出て行くよ。」



真琴は彼と見つめあいしばらく考えてから言った。

「いいわ、わかった。聴いたらすぐ出てって。約束よ。」



彼がうっとうしいのに変わりはなかったが、あの曲を好いてくれたのでなんとなく邪険にするのも躊躇われたから真琴は演奏することにした。ここで彼の申し入れを受けないことはあの人にまで失礼な気がしていたから。あの人が真琴の今の立場だったら微笑んで快く受け入れていただろう。あの人はそんな人だ。真琴はペンダントを手にとって見つめた。



「おや、どうしたんだい?急に心変わりして。断られると思ったんだけどなぁ。今まで見てきた君の行動からしてはこれは意外な展開。」

彼が目を大きく見開いた顔で驚いたように言った。

「ごちゃごちゃ言うんだったらもう演奏してあげないわよっ!」



真琴の顔が見る見る紅潮して、彼に怒鳴った。せっかく聴かせてもいいっていってるのに・・・そりゃ確かに冷たい態度はとっていたけれど。恥ずかしさと怒りが混じった妙な気分だった。

「うそうそ、ごめんよ。でも嬉しいなぁ。また君の演奏が聴けるなんてね。」

彼は噴出しそうになるのを一生懸命堪えた様子で言った。





真琴が演奏し始めると彼は目を閉じ静かに演奏に耳を傾けていた。ピアノの旋律の一つ一つを聴き漏らすまいと集中して聴いていたように真琴には見えて少し驚いた。からかいや冷やかしなどでここにやってきたのではなく、彼はただ本当に真琴の演奏を聴きたいがためだけにやってきたのかと思った。



今までは誰もいない音楽室で誰かに聴かすでもなく、ただ自分のためだけに弾いていた。こうして他人に聴かせるために演奏したのは久しぶりのことだったのに、特に臆するすることもなく指が滑らかに動いて不思議だった。彼が真剣に聴いてくれていたからなのかは真琴にもよくわからなかった。



思ったよりも気持ちよく演奏できていると感じていると、彼が瞼をゆっくりと開けて机に置いてあったキャンパスノートを開いて、何か絵を描き始めた。何を描いているのか真琴の位置からはわからなかったが、その時の彼の表情に目を奪われた。リラックスしゆったりした様子で、普段見せる笑顔が一層柔らかく見え、とても優しげな顔をしていた。



まるでおとぎ話に出てくる優しいおじいさんのような、何かいけないことをして、泣いて懺悔する小さな子供を優しく包み込んで許してくれるような顔をしていた。真琴の胸が一瞬高鳴った。



彼は約束どおり演奏が終わるとお礼を言って出て行った。彼が去った後、演奏をし終えた真琴はすぐに演奏を再開はせず、窓から見える赤い景色の校庭を見つめていた。野球部の男子達の掛け声が響いていたが、真琴の耳にはまるではるか遠くから聞こえてくるようにぼんやりとおぼろげだった。音楽室に一人になった真琴は胸にわずかに空虚なものが去来して浮かんでいた。



さっきまでここにいた彼がいなくなったから感じたことなのか。いやそんなことあるはずはない。真琴は彼をよくは思っていないんだから。馴れ馴れしく真琴に言い寄ってくる変な奴なのだ。



「柿本・・・蓉介か・・・・。」

真琴はそっとつぶやいた。







それからの学校生活で、柿本蓉介は真琴に進んで話しかけてはこなかった。きつく拒絶して見せたのに、あの日音楽室に何食わぬ顔でやってきた彼なら教室でもしつこく何か話してくるのではないかと思っていたので少し拍子抜けした。



休み時間など彼のことがなんとなく気になってその姿を目で追うようになった。彼は教室内では物静かで、進んで人の輪に加わろうとはしていなかったが、誰かに話しかけられれば笑顔で気持ちよく接していた。人受けがいいようで変な冗談も言うみたいだから、結構クラスメイトから話しかけられていた。



真琴と同じで自分から決して人に話しかけはしなかったが、愛想よくするところが真琴と決定的に違っていた。真琴は今ではほぼ全員に話しかけられて、誰に対しても拒絶の態度をとっていたので話しかけてくる人間は皆無で、生徒たちの間で変人と噂されているかもしれない。周囲の真琴に向けてくる視線で何となくわかる。まあどうでもよいことではあるが。



休み時間真琴が一人文庫本を読んでいると、隣に座っている柿本がクラスメイトの一人と笑い合って話しあっていたので、真琴はちらりとその様子を盗み見た。クラスメイトが話を終えたようで柿本から離れていった。ちょうどそこで彼が真琴のほうを見て、目と目が合った。彼はにっこりと真琴に微笑んだ。



そのしぐさはとても自然体で、真琴は慌てて開いた文庫本に目を戻した。少し頬が紅潮していた。本に集中しようと文字を追ってもなかなかすんなり頭に入ってこなかった。

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