第12話 加奈のお母さん

文字数 3,551文字

外は遊んでいる子供たちがお腹をすかせて家路につく時刻にさしかかろうとしていた。加奈はひとり居間のテーブルにうさぎのぬいぐるみを置き画用紙を広げて絵を描いていた。うさぎが色鉛筆で描かれている。母が可愛いうさぎさんねと言ってくれて加奈はにっこり笑った。



母が夕飯の買い物に行きましょうというので一緒に行くことにした。母と手をつないでそのぬくもりを感じながらはるか遠い向こうに沈む空を眺めて歩いていた。どこかで遠くに飛び立っていく鳥の声を聞いた。



「今日の夕ご飯何にしようか。」

優しく母は加奈に語りかける。加奈は母のことが好きだった。いつも世界の中心には加奈と母がいた。母と一緒でない幸せなど考えられないし考えたこともなかった。

「肉じゃががいいな。私。」



つないだ手を無邪気に振り回し、加奈は母に笑顔を向けてこたえた。加奈と母は二人家族で生活は貧しかった。しかし加奈は不満に思ったことは一度もない。いつも優しく加奈を愛してくれる母のことが大好きだった。少々お腹が満たされなくても心が餓えることはこれまでなく、幸せな気持ちが枯れるようなことはなかった。

「ふふふ・・加奈は肉じゃがが大好きだものね。」

「お母さんの作るご飯は何でもおいしいから加奈好きだよ。」



あどけなく言う加奈にありがとうと母は微笑んだ。幸福に包まれた日々は永遠に続くものだと片時も疑わず加奈は思っていた。優しさが溢れる日常が消えてなくなるなんて想像したことはなかったし信じられなかった。こんなにも近くに感じられる母の温もりが消えてしまうなんて予想すらできなかった。



夕食をおえ、母が食べ終わった食器を洗っている音を背後に聞き、加奈は一人、ピアノの前に座っていた。まだ小さな加奈は椅子に座ると足が畳の床に届かず宙に浮かして揺らしている。指先で鍵盤に触れひとつ音を出す。はじかれた音につづきメロディーが奏でられる。加奈が一番好きな曲、母が最初に教えてくれた曲で得意な曲でもある。



気づくと食器を洗い終えた母がいて後ろから加奈を抱きこむようにして加奈とともに弾き始めた。顔と顔を合わせると母はにっこりと加奈の顔を覗き込んだ。加奈に触れている背中からピアノを弾く母のぬくもりが温かくて加奈は嬉しさを噛みしめた。何の不安も、恐れも入り込む余地など無いほどに幸福感に満たされていた。



  冷たさが身にしみてくる寒い冬の日、加奈は九歳の誕生日を迎えた。学校から急いで帰ってきた加奈はわくわくする気持ちを弾ませていた。家には誰もいず母がまだ仕事から帰ってきていないらしかった。一人部屋でピアノを弾いてまだかまだかと時間をもてあまし、陽が完全に沈みかけようとした頃になって母が帰ってきた。スーツ姿に身を包んだ母は手に四角い箱の入った白い袋を提げていた。



「お帰りなさい!」

明るく出迎える加奈を見て母は微笑み、頭を撫でてくれた。

「ただいま。加奈、ケーキを買ってきたから夕飯の後、一緒に加奈の誕生日を祝いましょうね。」

目を輝かせて頷いた加奈は母が夕飯を作る手伝いにとりかかった。夕飯を終え、母がケーキに九本のろうそくを用意し加奈がケーキにそれを立てていった。ケーキを見つめて加奈の顔が曇った。

「どうしたの?このケーキ加奈嫌いだった?」



母が加奈の顔を心配そうに覗き込む。

「ううん、違うの。このケーキすごく高そうだけれども・・・・・」

一目見ただけで高級だと子供の加奈にも分かる、苺やメロンなど豪勢にフルーツで飾られたホワイトケーキだった。加奈の言葉に目を丸くしてからなんだそんなこと、と母は苦笑いして言った。



「ばかね。そんなこと心配しなくていいのよ。お母さんは加奈がこうやって無事に九歳の誕生日を迎えることができてとても嬉しいのよ。お母さんの一人娘、大切な加奈の誕生日だもの。きちんと祝ってあげたいの。こういう時だからこそ贅沢しなくちゃ。ね?」



柔らかい眼差しで何も心配することは無いのよと言われた加奈は泣き出しそうになって幸せな気持ちを抑えきれずに母の胸に飛び込んだ。父親のいない母と二人の生活はけして楽なものではなかったので加奈は心配していたが、それでも母がきちんと惜しみなく自分の誕生日を祝ってくれることに感激した。母の愛情を感じ取れた。



加奈は母が加奈の誕生日をただ祝ってくれただけで、ただそれだけで嬉しかった。満たされた。贅沢なんてしたいなんて少しも思わない。誕生日を母に祝ってもらう、そのことがプレゼントの豪華さや豪勢な食事などよりも重要で大切なことなのだ。



「ありがとう・・お母さん大好き。」

フフフと笑みを漏らして母は、お母さんも加奈が大好きよ、と優しく加奈を包み込むように抱きしめてくれた。この幸福な一時に加奈ははっきりと思う。母がいれば他に何もいらない、何も望まないと。





火を灯し電気を消すと、母がピアノの演奏をつけてハッピーバースディを歌ってくれた。透き通るような母の囁く歌声が心にしみこんでいくようで心地よく、加奈はいつまでも聴いていたい気持ちになった。一息では消せず二三度でやっと火が消えた。電気をつけ加奈の頭にそっと手を置いて母が笑顔でお祝いの言葉を言ってくれた。



「おめでとう加奈。これで加奈は九歳になるのね。」

奥の部屋から母が一枚の写真を入れた写真立を持ってきた。

「あなた、加奈は今日で九歳になりましたよ。天国で加奈のこと祝ってあげて下さいね。」

目を細めて写真を見つめ、母はそう言った。そこには今はもういない加奈の父親が写っていた。



「ねえ、お父さんの話を聞かせて。私もっとお父さんの話聞きたい。」

加奈は母の腕に自分の腕を絡めて甘えるように寄り添った。

フフフと母は微笑んで加奈を見てから写真におっとりとしたまなざしを向けた。



「加奈のお父さんは加奈が生まれる前に死んじゃったものね。」

「お父さんはどんな人だったの?」

加奈は母の肩に頭を預けて聞いた。



「あなたのお父さんはね、とても優しい人だったわ。真面目で目立つようなことはしないで控えめな性格でね、自分のことより人のことを考えて、人が喜んでくれればお父さんも喜んで、人が悲しめば一緒になって悲しむような人だったのよ。」

父は加奈が生まれる前に病気で死んでしまって会ったことはないので写真でしか父のことを知らなかった。母の話を聞いて父がどんな人だったのか想像することしか出来ない。



「お父さんは加奈がお母さんのお腹にいるって初めて知った時、とても喜んだのよ。本当に嬉しそうにね。今でもその頃のことが忘れられないわ。」

母は遠い目をして懐かしそうに話を続けた。

「お母さんのお腹にさわってよく加奈に話しかけていたのよ。お父さん。とても優しい顔になってね。お母さんに見せる笑顔とはまた違った特別の笑顔だったわね、お父さん仕事に出掛ける前とか、寄り道しないでまっすぐ仕事から帰って来たら、すぐにお母さんのところに来て愛情のこもった手でお腹をさすっていたのよ。」



加奈は父がお腹の中にいた自分に話しかけている姿を想像した。すると会ったことがないのに加奈はとても嬉しくなり、父が本当に加奈が生まれてくることを望んでくれていたんだと思い、その深い愛情を感じた。

「加奈が生まれてくるのをとても楽しみにしてたわ。はやく逢いたいって、手の中に抱きたいって・・。名前はどうしようか、男の子ならこんな名前、女の子ならこんな名前がいいんじゃないかってね。気持ちだけがはやってしまって、おもちゃも買っておこう哺乳瓶はどんなのがいいかベットはどうしようとかってすごく張り切りきってね。」



母は当時の父のそんな様子を思い出してか、口に手をあててくすくすと笑った。

「お腹に加奈がいる時からお母さん、加奈にこのピアノ曲を聞かせていたのよ。お父さんが、お母さんが演奏する横からお腹に手をあてて聴いていたわ。」

それが至福の時間だったのは母の表情を見ればわかった。



「でも加奈がお腹にいるとわかって二ヶ月位した頃にね、お父さんすごく重い病気にかかってしまったのよ。お医者さんに後、半年だけしか生きれないって言われたの・・。」

母は少し微笑みに悲しげな陰りを滲ませて言った。

「そんな・・お父さんかわいそう・・お医者さまにも治せない病気だったの・・?」

加奈はもうこの世にはいない父のことを強く想い、眉根を八の字に寄せて目に涙を浮かべた。加奈に逢いたいと心から望んでくれて楽しみにしてくれていたのに、逢うこともなく天国に行ってしまうなんて。



「うん・・・お父さんの病気は手術をしても直せない病気だったのよ。お母さんすごくショックだったわ。お父さんと後半年しか一緒にいられないなんてね・・それから病院に入院することになって数ヶ月、良くなることはなくてお父さんの体は徐々に弱っていったの。」
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