第11話 せめてあの娘だけは幸せになってほしい

文字数 2,911文字

彼女の死を知り、真琴はそれから茫然自失、抜け殻のような日々を送った。学校で授業を受けていても、施設で過ごしていても空ろな表情をしていた。学校のクラスメイトが何か話しかけてきたことがあったが、何を言っていたか覚えていない。先生に授業をきちんと聞いていないという理由で何か注意を受け、叱られたが、真琴は上の空だった。先生が怒っているのはわかっていたがその内容はまったく頭に入ってこなかった。そんな真琴に先生は呆れてため息をつくだけだった。



まるで何も手につかなくて施設でも職員が話しかけても、真琴はほとんど何の反応も示さず、一人ボォッと過ごしていた。職員達も心配して頭を抱えていた。表情に乏しくてじっとしていると思うと何の前触れもなく突然泣き出したりした。それは発作的だった。それ程までに真琴の状態はひどかった。



母も父も失った真琴にとって、唯一できた心の支え、大切な存在であった彼女を亡くしてしまったのだから仕方ないことだった。真琴は心から彼女のことを慕っていたから、その分失った時の反動は大きかったのかもしれない。ピアノも弾こうとはしなかった。弾けば彼女のことが小さな胸に溢れてきて胸が締め付けられて苦しくなり、辛くなるだけだと思ったから、とても演奏できる心理状態ではなかった。





彼女が死んでから三週間が過ぎた。真琴は完全に元の状態に戻ったとは言えなかったが、彼女が亡くなった直後に比べれば、精神状態が少しだけ落ち着いてきた。彼女が亡くなってから初めて迎えた日曜日は気が狂いそうになった。毎週日曜日、ピアノ教室に通うのを楽しみにしていた幸福な習慣はもうなくなってしまったのだ。



施設で何もせずに過ごす日曜日、彼女が生きていれば今頃はピアノ教室にいて、楽しくレッスンを受けているはずだった。そう考えると真琴はもう、気が変になってどうにかなりそうだった。壁に頭を打ちつけて流血し、それを見つけて慌てて駆けつけた職員に取り押さえられたこともあった。



心は空っぽのままだったが、そんな状態も少し時が立てば落ち着いて改めて彼女のお墓にきちんと参ろうと考えられるくらいになった。真琴は職員のおばさんに事情を説明して、お墓に備えるお花を買うお金と施設に置いてあった御線香をもらった。おばさんは彼女の死を知っていたし、真琴のここのところの異変を見ていたので快くお金を出してくれた。



日曜日の午後、真琴は途中で花を買い、彼女のお墓を参った。眩しく射してくる明るい日光に彼女の墓標は照らされていた。真琴は祭壇に火を灯した御線香をさし、お花を供えた。膝をおって目を閉じ手を合わせた。目を開けて真琴は思った。彼女は今頃は天国にいるんだろうか、彼女の夫と再会して幸せに暮らしていればいいと思った。



彼女は夫をとても愛していると以前真琴に話してくれたことがあったからだ。彼女はとてもいい人だったし、たくさんの人に好かれていた。そこにただ存在するだけで周りを明るくしてくれる、温かな気持ちにさせてくれる太陽のような人だった。多くの人々が彼女の死を惜しんだと思う。



だからきっと天国にいるはずだ。暖かな日差しの中でぼんやりとそんなことを考えた。しばらくお墓や、線香から煙る煙を見つめていると、真琴は初めてここに来た時のことを思い出した。以前来た時、確かお花が供えられ、お線香もさされていた。あの時真琴は気が動転して、頭の中が真っ白で余裕がなくて何も手につかなかったから、周りの状況など気にも留めなかったけど。



あれはもしかして一人残された娘さんが・・?彼女の親族や知り合いが参ったものかも知れないのではっきりはしないが。今娘さんはどうしているんだろう。確か真琴より一つ年下の女の子と彼女から聞いていた。亡くなった彼女が生きていた時、そう真琴の誕生日を祝ってくれた日、彼女は言っていた。



「今度私の娘を連れてくるから是非、真琴ちゃんに会ってみてほしいの。今度三人でどこかに遊びに行きましょう。遊園地とかがいいかしら。ちょっと人見知りする子だけれど真琴ちゃんならきっと娘と仲良くなれるわ。だってお互いピアノが大好きだものね。」



彼女はそう遠くない未来に自分が死んでしまうとも知らず、真琴に微笑んでいた。

「私も娘さんに会ってみたいです。一緒にピアノを弾いてみたいな。」



真琴も喜んで頷いて言った。あの時は一体どんな女の子なんだろうと真琴は会えるのをとても楽しみにしていた。お互いピアノが好きだから真琴に友達ができるかもしれないと。今となっては三人顔を合わすことはなくなってしまった。娘は今どうしているんだろうか。



母親に死なれて真琴と同じように一人ぼっちになってしまったのだ。辛い思いをしているのだろうか、実の母を亡くしたのだ。真琴以上に悲しんでいるかもしれない。真琴は彼女の住んでいた家を訪ねてみることにした。ピアノ教室に行って前に会ったおばさんに彼女がどこに住んでいたのかを聞いた。



娘がどうなったのか聞いてみたがおばさんは何も知らないと言った。真琴と同じように施設に入れられたのか、あるいは親戚に引き取られたのか、真琴は彼女の住んでいたアパートへの道すがらそんなことを考えていた。彼女の住んでいたアパートはピアノ教室から歩いて十五分ほどの所にあった。



二階建ての質素な外観のアパートだった。彼女は一階に住んでいたらしいので行ってみると、表札が抜き取られて、空き家になっていた。誰もいない。近所の住人らしき人が通りかかったので聞いてみるとやはり娘さんは親戚に引き取られていったらしい。結局彼女の娘に会うことはなかった。



これから先、会うこともないだろう。けれど大好きだったあの人の娘なのだから、真琴なんかのために誕生日プレゼントをしてくれた良い子なのだから実の母を失って辛いだろうけれど、せめて真琴とは違い、幸せになって欲しいと心から素直な気持ちで祈らずにはいられなかった。



あの人の娘に一つでも多くの幸せが訪れますように。一人ぼっちで苦しむのは真琴一人だけで充分だと強く願った。真琴はそれから数年その少女の存在を忘れて過ごしていくことになるのだった。





真琴はしばらくしてピアノを弾くことを再開した。初めは彼女のことが思い出されてとても弾ける心理状態ではなかったが、少しずつだが時がたつと現実を直視できるだけの心の余裕ができて、弾けるようになった。彼女が最初に教えてくれた素敵な曲を、彼女との楽しかった出来事を思い返しながら、何度も演奏した。彼女のことが忘れられずに、名残惜しむように弾いた。



明るく神々しい旋律の曲だったが、真琴の心を反映してか、哀愁を漂わせ寂しさをのぞかせた演奏だった。曲から感じられるのは未来への溢れるような期待、希望ではなく幸せだった過去、大切な人との思い出を懐かしむだけの印象だけが残った。この曲以外、真琴は明るい曲を弾く気にはなれず、彼女と出会う前と同じような状態になり、暗く悲しい曲ばかりを弾くようになった。



真琴の心はピアノ演奏に如実に反映されていった。はたから演奏を聴いていた施設の職員達も心配していた。冷え切った心を抱いたまま真琴は数年の年月を過ごしていった。

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