第75話 触れ合えた夢の終わり

文字数 5,159文字

受験の天王山といわれる夏休みが終わり、二学期を迎えた。夏休みに勉強しなかった者は受験に失敗するといわれる程に夏休みは受験生にとって重要だった。加奈は抜かりなく受験勉強を着実にこなしここまで学力をつけてきていた。



夏休みの間はもっぱら加奈の住んでいる町にある市立図書館に出かけて一人黙々と勉強していた。家では愛は塾に行って不在だからいいが、おばがいるので落ち着いて勉強ができなかった。家にいると家事や雑用を押し付けられて勉強が満足にできなかったのだ。



もちろん加奈は家の仕事も今までどうりきちんとこなしていた。その合間を縫って集中して勉強していた。二学期を迎えると更に受験の雰囲気が強まってより教室内がぴりぴりしてきた。今までのんびりしていそうだった生徒まで本腰を入れ始めている。



部活をしていた生徒は夏休みまでで引退して受験に力を入れる。加奈は部活はしてなかったが、愛などは部活と塾、受験勉強と掛け持ちで大変そうだった。始業式の次の日の朝のホームルームで担任が再び進路調査書を配った。



高校入試までもう半年弱と時期が迫ってきたので、今回の調査書でほぼ進む進路の方向が決定される。生徒たちがいよいよ最終的に志望校を決めねばならないと気を張る様子がひしひしと感じられた。



ある生徒は順調に成績を伸ばして志望校に受かる余裕と自信を覗かせていて、またある生徒は勉強したが思うように成績が伸びずに志望校が危ぶまれると頭を抱えてうなだれていた。加奈は比較的余裕を感じている方にいた。このまま勉強すれば余裕を持って試験を受けられそうだった。



「高校受験がいよいよ迫ってきました。もうそんなに日がありません。以前の進路調査の時はまだ時間があり、皆さん自由に志望校を書いたと思いますが、今回の調査書は皆さんの成績と高校の入試レベルを比べてよく考えて、現実的に志望校を記入してください。前と同様に父兄の方を交えて三者面談を行います。今回の面談がほぼ最終的な面談になると思いますので、ご両親とよく相談して決めてくださいね。」



担任が真剣な表情で生徒たちに言った。聞くほうの生徒たちにも真剣さがびりびりと走った。加奈は以前の三社面談にはいやいやながらおばが学校にきて加奈の進路を担任と話し合った。加奈が志望した高校と、加奈の伸びている学力情報を担任から差し出されこのままいけばまず問題はないと聞かされるとおばは一応、満足そうに頷いた。



おばにしてみれば加奈がどこでもいいからとにかく公立高校に入ってくれればそれでいいようで、内心は加奈の志望校など興味がないようだった。





夜が深まった家の愛との共同部屋で、加奈は勉強を一通りきりのいいところまで終え、進路調査書に以前から何度も書いている高校名を書こうとした。もう変更はせずこのままいくと決めて書こうとした時、突然に加奈の脳裏に何度も見たあの夢がよぎった。ふと記入するために握ったペンを止める。



頭を左右に振って夢の残像をかき消そうとした。しかしすぐにまた頭に夢の映像が浮かんだ。何度もかき消そうとしても駄目だった。どうしたことだろう・・・。以前にも日常の端々で思い出すことは度々あったがこんなに脳裏に何度も浮かぶことはなかった。



日常にフッと容易に消えていったというのに・・・。しかもどうして日常の他の場面ではなく、進路調査書を書こうとする今なんだろう。加奈の心の無意識の部分が何かを伝えようと加奈自身に訴えているんだろうか。考えすぎかもしれないが・・。



突然の出来事に戸惑っていると、ドアが開いて入ってくる人がいた。ノックもせず入ってくるのだから、この家の誰かに違いないのだが、加奈はびくりと飛び上がりそうになった。振り返ると塾から帰ってきた愛が部屋に入ってくるところだった。



「お、お帰りなさい・・。」

まだ激しく脈うつ胸を押さえて加奈は小さく言った。愛はそれには答えずに無造作に参考書などが入った鞄を床に投げ出し、着替え始めた。

「はぁぁ。疲れた。勉強一色の生活はストレスがたまるわ。」



愛が独り言なのかよくわからない感じで吐き捨てるように言った。着替え終わった愛が加奈の机の上に置かれた進路調査書に目を留め、近づいてきて手に取った。

「進路か・・・・。加奈、あんた前から決めてる公立高校受けるの?」



空欄になったままの用紙を見ながら愛が尋ねてきた。

「ええ・・。私立だとおじさんたちに迷惑かけるから。公立一本に絞ってるの。」

「公立って言ってもこの地区で一番レベルが低いところ選ぶわけね。まあこの地区の公立はレベルの低いところがないとはいえ、最低のところを選ぶか・・ずる賢いのやら根性なしか臆病者のどっちかね。」



露骨な嫌味ともけなしとも取れることを愛は言ってきた。何か言い返してもろくなことにはならないと思い加奈は黙っていた。

「私なんかあんたの目指すレベルの低い公立と違って有名難関女子高目指してるから日々大変よ。塾に毎日通って夜遅くまで勉強して。それに引き換え、あんたは一番下の公立か、いい身分だわねまったく。」



散々好きなことを言って加奈のことを鼻で笑うと、愛は遅い夕飯を取るべく階下に降りて言った。加奈は愛になんと言われようと愛とは別の高校にいけるのならそれで充分だった。特別加奈は勉強が得意ではないのがわかっていたし、無理に色気を出して難関の公立高校を受けて落ちたりなんかしたらおじやおばに何を言われるやらわかったものではない。



特に行きたいという高校もなかったので無難に合格ラインの高校を受けて、できるだけ波風の立たないように平凡な高校生活を送ることを加奈は望んでいた。そう、目立つことなくひっそりと孤独に、苦しむこともないが、特に楽しいこともないそんな生活を。





なんとなく進路調査書はまだ提出まで余裕があるし明日書こうと決めて、ペンを置きその日はお風呂に入って体を温めおとなしく寝ることにした。頭に浮かんだ夢のことが気になったのもあったが、記入を先延ばしにしたのは、ただ何となくのきまぐれの部分が大きかった。



しかし後にこのことが加奈の人生を大きく左右することになった。







浅い眠りに着いていった加奈はこれまでとは比べ物にならないほどの強烈な夢を見た。









いつの間にか加奈は古い木材の混じった校舎の廊下に立っていた。また同じ夢をみているのかと加奈は夢の中で悟った。このまま音楽室に向かい彼らに近づいていくが光に遮られて目が覚める夢・・・最後まで見ようとしても叶わない切ない夢・・



しかし何度も見るにつれて彼らに近づいていける距離は少しずつではあるが縮まってきていた。後どれくらいこの夢を見れば彼らの元にたどり着けるんだろうと赤い夕陽に影を落としている無人の校庭を眺めてぼんやり思った。



今回も最後まで見るのは無理だろうかと古く汚れの目立つ廊下を先に進んでいった。加奈はこの夢を見るのが辛かった。加奈の不安や身を切るような苦しみ、寂しさ、悲しみ、その何もかもを受け入れてくれそうな、少年と少女が作り出す優しい穏やかなオーラに包まれた空間にもう少しで、あと少しで辿り着こうとする直前で有無を言わさずに阻止される。



期待を裏切られたような絶望感、得られるはずだったものの喪失感、虚しさ、せつなさ。様々な感情が夢から覚めた加奈に大波のように激しく押し寄せて襲いかかる。加奈には幸せをつかむ権利がないのだと思い知らされ見せ付けられたように感じる。



そんな救いなど幻なのだと、そんなおめでたいことは実際はありはしないのだと加奈を絶望の淵に叩き落す。音楽室の前までやってきた加奈は中の様子を振り仰いだ。何度見ても変わらずにそこにはピアノを弾く少女、聴こえてくるメロディは加奈のよく知っている曲、たたずむようにして側で聴く少年がいる光景が、神秘的な夢の中の光景が広がっていた。



彼らの表情はいつものように霞がかかりよく見えない。加奈はゆっくりと近づいていく。彼らが加奈の存在に気づき、微笑んだような気がした。ここまではこれまでと同じ。もうすぐ真っ白な光が現れて何もかもが消えていくのだ。今回はどこまで近づいていけるだろうかとぼんやり思って歩を進める。そろそろ光が現れるだろう、加奈を絶望させるためだけにあるあの光が。



しかし一向に光が現れない。もうすぐ二人の空間に入っていく。加奈は一瞬立ち止まり少しとどまったが光が現れる気配がまったくない。ここで初めて加奈はいつもと様子が違うことに気づいた。



もしかしてこのまま遮られることなく夢の終わりまで見てしまうのではないか。その証拠に光は現れない。加奈の鼓動が一気に跳ね上がった。やっとのことで二人のところに辿り着き少年と共に少女の演奏をゆったりと聴くことができる喜びと、同時に本当にこのまま突き進んでしまってもいいのか、喜びを幸せを素直に味わってしまってもいいのかと身が震えて不安になり恐怖した。



躊躇ってその場から一歩を踏み出せずにいた。後少しで辿り着けるというのに。その時だった。少年が立ち上がって隣に空いている椅子を示し、加奈を歓迎しようとしたのだ。少女も加奈に大きく頷いてみせ微笑んだように見えた。



そんな二人を見た瞬間、加奈は身も心も空気のように軽くなった気がした。不安と恐怖が掻き消えた。もう何もかもどうでもいいような気持ちになった。絶望も希望も何もかもが混ざり合って心の中は無心の状態になった。



ふわっと浮き上がるように自然と体が動いて難なく、少年が示した椅子のところまで行き腰を下ろした。その場はただいるだけでとても温かい気持ちになった。外から見て温かそうだと思ったがそう感じた通りだった。



母親のお腹の中にいる胎児が優しく穏やかな空間に包み込まれ守られている状態がこんな感じかもしれないと加奈はなんとなく思った。じっとしてるだけで幸せな気持ちなってきて少女が弾くピアノからは綺麗な音色が響いてくる。



少女の演奏はまるで加奈に優しい言葉を掛けているようなそんな気にさせた。



「もう大丈夫よ。何も心配することはないから。安心して。」



そんな風に不安になって泣きそうになっている小さな子供をあやして安心させるような感じで言われた気がした。不安も恐怖も何もかも投げ出してこの身を一心に絶対安心できる存在に任せるような感覚を加奈は覚えた。



いつまでもここに居たいと強く思った。このまま夢から覚めなければいいのに。うれしいはずなのに涙が後から後から溢れ出した。そんな様子に気がついた少年が加奈の肩にそっと手を置いた。少年のほうを加奈は振り向いたが、こんなに近くにいるのに顔がぼやけて認識することができなかった。



慰めるように置かれたその手はとても温かくて加奈の身にとてもよくしみた。少女もピアノから身を離し、加奈の側までやってきてその場で跪いた。下から覗き込んでくるようにしてきた少女の顔はやはりこんなに近くにいてもはっきりと見えなかった。



少女が色白で細く綺麗な指を加奈の泣いて小刻みに震える手に伸ばしてきて両手で加奈の手を優しく包み込んだ。つながれた両手から彼女のいっぱいの愛情がぬくもりが加奈に伝わってきた気がした。



震えはおさまり、涙も瞳の奥に引っ込んだ。少女が満足そうに加奈に笑いかけた。加奈も自然と笑顔になって少女に微笑み返した。



何のてらいもない素直な笑みだった。

「大丈夫だよ。」



少女がそれだけつぶやくように言った瞬間、凝縮された光が音もなく現れた。光は徐々に大きく膨れ上がり、少女も少年も、グランドピアノも目に映る全てを飲み込んでいく。消えゆく視界の中で少女と少年がいつまでもその顔に優しい笑みをたたえていた。



加奈は名残惜しそうに消えていく二人を見つめている。このとき加奈は何故かはわからないが二人にはもう会うことができないだろうと直感で感じていた。二度とこの夢を見ることはない、最後まで見てしまったからなのかは加奈には分からない。



ただ加奈はそんなことより、もう二度とこの二人に会えないことだけが辛く寂しく悲しかった。何度も同じ夢を見た末にやっとこうして触れ合うことができたというのに・・・。気づけば加奈は布団の中で目を覚ましていた。



これまでで一番たくさんの涙を流したのかも知れないくらい頬を伝って下にしいていた枕が濡れていた。肩に置いてくれた少年の手の温かい感触が、両腕を包み込んでくれた少女の手の感触がまだ温かくはっきりと体に残っていてとても夢の出来事には思えなかった。



そのことが更に加奈を悲しい気持ちにさせた。あんなに幸せな感覚になれたのに今では信じられないくらいの喪失感を感じていた。ただの夢とは到底思えない。何かを意味している。そう自然と思えた。こんな夢を見たのは加奈が生まれてから初めての事だったからだ。
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