第5話 ピアノ教室と女の人

文字数 4,243文字

ピアノ教室で彼女を見て以来、真琴は学校から施設に帰ると、ランドセルを置いてすぐにピアノ教室を見に行った。その目的はもちろんあの女性を見に行くためだ。



彼女が教室にいなかった時、真琴はがっくり肩を落として帰った。彼女がいる時は、外からじっと見学していた。真琴の姿に気がつくといつも笑顔で微笑んでくれた。彼女が練習生たちに手本を見せるためにピアノを弾いていたことがあった。



外にいる真琴の所にも微かにその音色は届いた。彼女の弾くピアノはその温かな人柄を素直にあらわしているようでとても美しく温かくて、希望のようなものが溢れて満ち満ちていた。真琴は我も忘れて演奏に聴き入っていた。隠れていることも忘れるくらいに。



ある日曜日の昼下がり、いつものようにピアノ教室に行くと室内には生徒も指導する大人たちの姿も見えなった。今日は休みなんだろうかと思ったが、室内の照明はついているので誰もいないわけではないようだった。しばらくどうしようかと考えていると、室内の奥からなんと彼女が一人現れた。トイレにでも行ってたのだろうかそれはわからないが、彼女は数ある内のピアノの椅子の一つに腰を下ろした。



演奏を始めようとしたところで彼女は真琴が来ていることに気がついた。柔らかく微笑んでから立ち上がって入り口のドアを開けて出てきた。真琴は驚いて、思わず逃げ出そうとしたがそれよりも先に体のほうがかたまってしまい動くことが出来なかった。



彼女は真琴の側までやってくると朗らか微笑を浮かべ、優しげな口調で話しかけてきた。

「こんにちは。」

「こ、こんにちは。」



少々戸惑い気味に真琴は挨拶した。だってまさか彼女と話すことになるなんて夢にも思わなかったから。彼女の声はとても綺麗に澄んでいて真琴の耳に心地よく凛と響いた。



「いつも教室を見に来てくれてるけど、あなたピアノに興味があるの?」

「は、はい・・。」

うまく言葉が出てこない。ぎこちない返事をしていると彼女が聞いてきた。

「じゃあ、試しにピアノ弾いてみる?」

「え?でも・・・・」



真琴が返事をする間もなく、いいから来て、と真琴は女性に手を握られ、教室のほうまで連れて行かれた。彼女の手はとても細く柔らかくそして温かかった。真琴は何だか嬉しい様な恥ずかしいような気持ちになって顔が赤くなった。教室内に入ると外よりも温かくて真琴の気持ちが和らいだ。



「今日は少し遅くからのレッスンだから、生徒たちが来るまで時間があるの。だから時間のことは気にしなくていいわよ。」

真琴が部屋の真ん中で立ってピアノを眺めていると、彼女は奥の部屋に向かいながら言った。しばらく待っていると彼女は手にホットミルクの入ったマグカップを二つ持ってあらわれた。一つを真琴に差し出して、真琴がお礼を言うとにっこり微笑んで椅子に腰掛けた。



真琴も椅子をすすめられたので彼女の前のピアノの椅子に腰を下ろした。両手で包み込むようにマグカップを持っているととても温かかった。上目遣いにホットミルクを飲みながら真琴が黙っていると彼女は真琴を見つめていった。

「あなた名前は?歳はいくつ?」

「来栖・・来栖真琴っていいます。歳は十歳になったばかりです。」

「そう、真琴ちゃんね。私、真琴ちゃんと同じ年頃の娘が一人いるのよ。」



彼女は自分の名前を告げて、目を細めて真琴を見つめた。彼女は真琴が思っていた通り、とても優しくて温かくて物腰がとても柔らかだった。話していると心が清められ軽くなってしまって安心しきってしまいそうだった。



娘がいるらしくこんな魅力的な女性の娘はどんな子なんだろうか、やっぱり同じように優しくて可愛らしい少女なんだろうかと真琴は想像を膨らませた。彼女が娘の話をした時、一層幸せそうな笑顔になった。彼女が娘を本当に心から大切にしていて愛していることの表れだと思った。



「娘さんもやっぱりおばさんと同じでピアノが好きでよく弾くんですか?」

「ええ、私が最初教えてあげたんだけど、とってもピアノが大好きになってね、私が仕事にいって留守番してる間も一生懸命練習してるくらい好きなのよ。」



真琴は彼女の娘がうらやましかった。こんなに優しい女性が母親で毎日、ピアノを教えてくれてるなんて。少し顔を曇らせているとどうしたの?と彼女が心配そうに真琴の顔を覗き込んできた。

いえ、何でもないですと真琴は首を振った。せっかく彼女とこうして共に時間を過ごせているのだから、それを壊すような様子を見せてはいけないと真琴は自分を戒めた。



「真琴ちゃんはピアノを弾いたことはあるの?」

「はい、家にピアノがあるから、学校にいる時以外はよく弾いてます。」

「どなたに教えてもらったの?真琴ちゃんのお母さん?」

「いえ・・知ってる人が弾いてるのを見よう見まねで覚えて・・後は自分で好きなように弾いてるだけです。」



真琴は親がいなくて施設で生活していることは伏せた。まあ、そうなの、あなたも娘と同じでピアノが大好きなのね、と彼女は笑んで言った。

「それじゃあ、私に演奏を是非聴かせてほしいわ。お願いしてもいい?」

真琴は恥ずかしかったが、彼女に自分の演奏を聴いてもらいたかった。下手でも何でもこうして彼女と同じ時間を一秒でも長く共に過ごしていたかった。真琴は頷いてピアノの蓋を開けた。



鍵盤に指を乗せて演奏を始めた。施設でいつも弾いている曲を演奏した。悲しい曲調のメロディ、まるでこれまでの辛い日々を物語るように真琴の心の内を表に具現化させた演奏だった。何曲か弾いたがどれも孤独、絶望、叫び、悲しみが色濃くメロディにあらわれた。彼女は笑みを消して代わりに、少し悲しげな表情になって真琴の演奏を聴いていた。演奏を終えて、真琴は彼女を見た。



「普段よく弾く曲ばかりなんですけど・・どうでしたか?」

恐る恐る真琴が聞くと、彼女はまだ少し悲しさを残したような笑顔で言った。

「うん、真琴ちゃんの感情がピアノの旋律にとてもよく出ていてよかったわよ。技術はまだまだ荒削りだけれど、演奏は気持ちが大事だから。よく演奏できてると思うわ。」



真琴はほめられて顔を赤く染めた。彼女に評価してもらったことが素直に嬉しかった。

「ところで・・真琴ちゃんは、明るい曲調の曲は弾かないの?弾けるならそれも聞いてみたいんだけれど。」

誉められて嬉しくなったのもつかの間、施設の職員のおばさんと同じことを言われて真琴は動揺した。

「明るい曲はなんだか弾くことに抵抗があって、うまく弾けないんです・・・。」



暗い表情で俯いて真琴はつぶやいた。今まで真琴は施設で明るい曲を演奏したことがあったが、どうもメロディに陰りがさして、本来明るい曲のはずが、暗いトーンが滲み出てしまい、真琴は自分には明るい曲は似合わないと演奏するのをあきらめていた。



しばらく二人の間に沈黙が流れた。

「そう、なら私がお気に入りの曲があるんだけれど、真琴ちゃんに教えてあげましょうか。」

突然、沈黙を破るように思ってもみなかった意外な提案をした彼女を真琴は驚いて見上げた。

「それだけ上手に弾けるのに、明るい曲が弾けないなんて何だかもったいないわよ。」



言いながら彼女は立ち上がって真琴の後ろまでやってきた。

「でも・・私に弾けるかどうか・・・自信がないんです・・。明るい曲を弾くとどうしても暗い感じになっちゃって・・・。」

彼女が椅子を真琴の側に寄せてきて隣に座った。



「大丈夫よ。あなたならきっと素敵な演奏が出来るようになるわ。私が保証する。まず私が一回見本で弾いてみるからよく聴いていてね。」

彼女は微笑んで真琴にそう言った。その優しい笑みと言葉に見とれてしまい真琴は頭がぼうっとしてしまった。彼女がそう言ってくれるのなら弾けるかもしれないと、信じられるような気持ちに不思議となった。



真琴が頷くと彼女の美しい演奏が始まり、その精錬された旋律に真琴は身も心もひきこまれていった。





彼女が演奏して聞かせてくれた曲はとても美しい曲だった。真琴は初めて聴いた。彼女が言うにはクラシックの曲の一つで、彼女自身が一番気に入っている曲らしかった。すばらしい曲だが、一般にはあまり有名ではなく知られていない曲だった。



クラシックによく通じる人から言えば隠れた名曲らしい。曲自体はすばらしく、控えめな旋律であるが温かく希望に満ち溢れていた。そんな魅力ある曲を優しく穏やかな人柄の彼女が真心を込めて演奏すれば、さらに美しさ、温かさが増して真琴は彼女の演奏に完全に心を奪われてしまった。



今まで明るい曲を聴いても心を動かされたり、自分の手で是非弾いてみたいと思ったことは一度もなかった。なのに彼女の演奏を聴いて真琴は彼女のように自分もこの曲を弾けるようになりたいという、どうしようもなく抑えられない強い欲求に駆られたのだった。



もしかしたら彼女以外の誰かがこの曲を弾いたとしても真琴は心を動かされなかったのかもしれない。美しい曲があって、その曲を彼女が弾いたからこそ真琴は感銘を受けたのではないだろうか。彼女が演奏を終えて真琴に向き直った。

「どう?素敵な曲でしょう?」



真琴はあまりにもすばらしい演奏に圧倒されてしばらく声を失っていたが、声をかけられて我に返り激しく首を縦に振った。彼女はそんな真琴を満足そうに見て微笑んだ。

「わ、私、とっても感動しました!明るい曲でこんなに感動したの、私初めてです!」

「そう、気にいってもらえてよかったわ。じゃあ今度は二人で弾いて練習してみましょうか?」



はい、と夢中になって真琴は頷いた。真琴が鍵盤に指を置くと、彼女は真琴の後ろに立って真琴の後ろから覆いかぶさるようにして鍵盤に手をかざした。彼女の肩まである滑らかな髪が真琴の肩に落ちてきていい匂いがし、真琴の鼻を甘くくすぐった。



真琴はどきりとした。彼女の温かな体温が背中越しに直に伝わってきた。心臓の鼓動も穏やかな息遣いも真琴にはっきりと届いた。じゃあ、最初はこの音からねと彼女の指が軽く真琴の指に触れた。彼女の指示の元、指使いを覚えていく。



しばらくそうしていると真琴はとても穏やかな気持ちになった。彼女と触れ合うことで、真琴を優しく包み込んでくれることで、真琴は母親のぬくもりを思い出していたのかもしれない。

こうして優しく微笑みかけてくれる彼女と同じ時間を過ごせること。もしかして今この瞬間はとても貴重なのではないかと思えた。



いつまでも続けばいいのに、このまま時間が止まってしまえばいいのに。真琴は心からそう思っていた。
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