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透の後任人事が難航したことと、移住の手続きに手間取ったこともあって、出国は一年遅れた。
透六十一才、梨花五十六才である。ガンは再発しなかった。
「だから、しないっていったじゃないですかぁ」
真紀がいう。
「ちゃんと、デザイン送ってくださいよ」
会社の代表を、香苗にゆずって梨花は完全に「BLUEMOON」から退いた。はずだった。
リカコレクションもいまは、別のネイリストが引継いでいる。梨花がクアラルンプールで個人的にネイリストとしてやっていくといったら、香苗がこれに食いついた。
「個人とかもったいないな。BLUEMOONクアラルンプール店の看板あげてくださいよ」
といいだした。
「梨花さんのペースでかまわないですよ。だって、海外支店あったらBLUEMOONの
香苗は小首をかしげてニコッと笑う。とんだ宿題を出されてしまった。
「ええー? 透とふたりでのんびりしたいのに」
「そんなの、すぐに飽きちゃいますよ。いくらか縛りがあったほうがいいんです」
そんなものかなあ、と思いつつも資材を卸してもらう手前、やらざるをえない。いや、好きなのだ、結局は。そんなふうに頼られればうれしい。しょうがないなあ、といいつつ喜んでいる。それは透にも見透かされていた。
出国をひと月後に控え、透の退任と引きつぎは無事に終わった。
加藤には、世話になったと電話を入れた。
「たいしたことはしていませんが。二組のカップルのしあわせの
加藤からの最後の報告は、美里が元気を取り戻したらしい。だった。梨花は鼻で笑った。人に頼り切って、自分の手でなにも生みだそうとしないのなら、その程度のしあわせが関の山だろうな。
加藤は引き続き次の常務につくらしい。
八木にも電話をした。
「マレーシアまでは野菜を送れませんからね」
八木からは、何度か段ボール一つ分の野菜が送られてきた。キャベツ、大根、にんじん、ほうれん草、小松菜。夏にはトウモロコシやすいか。秋にはカキや梨。
ごていねいにレシピもついてきた。産直の売り場に置いてあるあれだ。野田梨花になって最初に届いた段ボールには、ピーラーまで入っていた。やたらにいかつい、りっぱなヤツである。
バカにしてるのか。皮ぐらいむけるわ。透には大笑いされた。くやしいことに、とても重宝している。すこしずつ、料理はしているのだ。カレーとかシチューとか、カレーとかシチューとか。
ひとつ懸念があるとすれば、東南アジアのようなモンスーン気候で、こってりとしたカレーやシチューに食指が動くのかということだった。
屋台がたくさんあるからそこで食べればいいよ。と透は笑った。もともと食にそれほどこだわりはない。それよりも梨花がいっしょにいることのほうがずっと大事なことだった。梨花さえいれば、毎食ダブルソフトだけだってかまわないとすら思っている。
いったら梨花は本気にしそうなので、口には出さないけれど。
「BLUEMOON」のホームページには新たにクアラルンプール店の開設案内がのせられ、二か月後からの予約ページも作られた。当面は昼間の三時間ほどを自宅リビングで施術することにしたが、透が空き店舗を探してくれることになった。
そういえば。圭太が再発について教えてくれといっていたのをすっかり忘れていた。どうしようかな。仕事中は困るだろうし、夜に電話してもいいものだろうか。
たぶん、美里がいるところで電話したほうがいいだろうなと思った。そして夜の九時。こちらには透もいる。三回目のコールで電話はつながった。
「ごぶさたしたわね」
「そうだね。心配していたんだよ」
「ごめんなさい、いろいろ立て込んでて、すっかりおそくなってしまって」
電話の向こうで圭太がふっと笑った。
「その声だと、だいじょうぶなんだね。元気そうだ」
「おかげさまで。ぴんぴんしてるわ」
「よかった」
「だから、もうわたしのことは気にしなくていいから。それに、もういなくなるし」
「え?」
よく意味がわからずに、圭太は戸惑ったような声をだした。
「移住するの。マレーシアに」
圭太の表情がこわばった。最近似たような話を聞きはしなかったか。
「クアラルンプールに持ちビルがあるのですって」
そうだ。クアラルンプールの不動産投資だった。同期から聞いたのだったか。
「その中のマンションの一室に住むの」
……野田?
「ネイルサロンも続けるのよ」
移住するために、常務を退任したと聞いた。……野田といっしょなのか? いっしょに行くのか?
「だれと……」
梨花はくすっと笑っただけだった。
「いつから……」
「さあ。なんのことかしら。いずれにしろ、もうあなたには関係ないわ」
梨花の声は明るい。
そうか。
野田にしろ誰にしろ、いっしょにいてくれるのなら安心だ。
あなたの出る幕はないわよ。
そういわれた。もう、まかせていいんだな。
「うん、そうだな。元気でな」
「あなたもね」
そういって、短い電話を切った。
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