疑惑

文字数 1,445文字


 結婚したいきさつはどうあれ、梨花は圭太とふたりでいい家庭を築いていこうと決めた。母親のように専業主婦になって、なにからなにまで夫の世話を焼くのはごめんだったが、梨花が仕事を続けることに圭太はなにもいわなかった。
「いまどき、専業主婦なんて」
 そういって笑った。
 料理は……。母のようにはいかなかった。もちろん帰宅してから作るわけだから、手抜きにもなる。スーパーのお惣菜のときもある。それでも圭太は、かまわないよといってくれる。
 ただ、梨花にはそれがやさしさというより遠慮に思えてしかたがない。おたがいに本音が出せないでいる。難儀だなあ、と梨花はため息をつく。そのうち、この遠慮はなくなるのだろうか。
 表面上はおだやかにすぎていく。結婚して二年を迎えるころだった。
 
 女がいるな。
 それはただの勘でしかなかった。はっきりした証拠もなにもない。でもわずかだが違和感があった。帰って来た時の一瞬のしぐさや、なにかのはずみに手が触れたときの表情。目が合ったときのごまかすような笑い方や、食事を終えて席を立つときの顔の()らし方。
 嘘だと思った。まさかと思った。だって出世のために自分で望んだ結婚だろう。それをなぜわざわざ反故(ほご)にするまねをするのだ。父にばれたらどうするつもりだ。
 それとも、それほどその女が大事なのか。ならば、わたしはなんなのだ。
 梨花はひどくショックを受けた。寄りそえていないのは自覚がある。どこか他人行儀なのもわかっている。それでも寄りそおうと、理解しようと努力をしているではないか。なにが不満なのだ。あんなにもつらい思いをして春人と別れたのに、それすらも足蹴(あしげ)にされた気がした。わたしの努力はぜんぶ無駄だったのか。
 父と母ははやく孫が見たいと、うるさくいってくる。そんなときに、どうしたというのだ。
 怒りと悲しみと虚しさをかくして、そ知らぬふりをする。その女との関係が一過性のものなのかもしれない。騒ぎたてるのはよくないと判断した。
 
「圭太くん」
 秘書をつれて突然現れた松島常務に、圭太の部署は慌てふためく。あたりまえだ。重役が顔を出すところではない。しかも下の名前で呼ばれて、圭太は跳ねるように立ちあがった。もちろん圭太の妻が常務の娘であることは全員承知だ。
「美術展のチケットをいただいてね。梨花と行ったらどうだろう。たまには梨花

連れて行ってやりなさい」
「は……」
 突き付けられた封筒を圭太は受け取った。松島常務は圭太の肩に手を置いた。
「たのんだよ」
 穏やかな声だったが離す瞬間、ぎりっと力が込められた。嵐のように去っていった常務を見送って全員からふうっとため息が漏れた。
 くぎを刺しに、わざわざ来たのだな。圭太の不倫相手は直属の部下だった。鋭い者はその関係に感づいていた。いくら隠しても、にじみ出る雰囲気というものがある。
 圭太は青ざめる。なぜ、どこからばれたのだ。これだけ周到に隠しているのに。梨花が感づいているかもしれないとは思っていた。梨花が話したのだろうか。受け取った封筒を持つ手に力が入る。
 なにげない風を装ってすわる際に、いくつかむこうの席にすわる彼女を盗み見た。下を向いて入力作業をしていた。表情は見えないが、常務の登場にさぞや驚いただろう。あきらかに牽制に来たのだから恐れおののいているにちがいない。あとでだいじょうぶだよとメッセージを送ってやらなくては。
 思わず出そうになったため息を飲みこんだ。動揺をさとられてはいけない。帰ったら梨花の様子を探ってみよう。
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