文字数 1,320文字


 野田が通り過ぎた瞬間、スマホをポケットにしまって、後ろについた。
「野田部長」
 声をかけると、彼はびくりと立ちどまった。
「わっ。びっくりした」
「おどろかせてすみません。総務の八木です。すこしだけお時間をいただきたいのですが」
「総務の八木さん? なんでしょう」
 怪訝(けげん)な顔をする野田をすかさず路地に引き入れる。会社から駅に向かう幹線道路は、路面店の明かりや行きかう車のライトに煌々(こうこう)と照らされて人通りも多い。それに比べて、一歩路地に入るととたんに明かりはへって、人通りもまばらになる。わざわざのぞきこむ人間もいない。
「伝言があります。梨花さんから」
 そういったとたん、野田の体がこわばったのがわかった。
「なに?」
 ふだんの穏やかさとは打って変わって、顔も声も鋭さを増す。ここはさっさと用をすませるにかぎる。
「事情があって、もう行けないと」
 腕をぐっとつかまれた。
「なんだって?」
 掴みかからんばかりの勢いに思わず後ずさる。
「……そう、いいつかったので」
「なぜ、あなたが?」
「僕は松島常務のお使いをしておりますので」
「そうですか、あなたが」
「古川さんのことがあるので、必然、梨花さんとも連絡を取っております」
 つかんだ手にさらに力が入る。
「なぜ。なぜ、もう来ないと?」
「僕は伝言を預かっただけなので」
「事情とはなんだ」
「それも僕にはわかりかねます」
 たぶん、手術のことだなとは思う。それは隠したいからいわないのだ。だとしたら、自分がいうわけにはいかない。
「うそだ」
 野田はなかなか手を放してくれない。必死さだけはつたわってくる。いいたいことがうまくことばにならないのだろう。眉間にしわをよせたまま八木をにらむように凝視する。
「梨花がそんなことをいうわけがない」
 梨花! 呼び捨て!
 このふたりの関係が、八木の思っているものだとして、梨花が会えないという理由はただひとつ。梨花の性分からいって、術後の体を晒すことができないのだろう。八木にわかるのはそれだけだ。
「うそだろう。なにかのまちがいだ」
「いえ。たしかに」
「そんなはずはない。納得できない。どうした。なにがあった」
 透は食い下がる。
「僕は頼まれただけですので……。梨花さんの事情までは知りませんし」
「いや。ありえない……」
 ようやく手を放した透は、頭を抱えてつぶやく。このときとばかりに、八木は伝えましたよと、その場を離れようとした。が、透はさらに引き留める。
「常務か! 常務にバレたのか!」
 バレたのなら、すでにどうにかなってますよ。
「そんなわけはない。そんなはずはないんだ」
 動揺しまくりだ。いや、メロメロじゃないか。手なずけられたのはこっちのほうか。さすがだな、女ぎつねオンザラン。そして男が惚れる男、どこにいった。いま目の前にいるのはあたふたした、ただのおっさんだが。気の毒だがこれ以上の長居は無用と、八木は一歩後ずさる。
「まって。あなたは梨花の連絡先を知っているんですよね」
 そうくるか。
「知っていますが……」
 しぶしぶ答える。連絡係に使うなよ。
「そうか、わかりました。まだ切れたわけじゃないんだな」
 いや、頼みの綱にされてもこまるから。八木はやっと透の手を逃れて足早に駅に向かった。
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