野田
文字数 1,158文字
「古川が」
梨花が口を開いた。周囲は固唾をのむ。
「世話になっているわね」
見おろすようにいってのけた。美里は目を見開いたまま、なにもいうことができない。しゅーっと空気が抜けて、みるみるしぼんでいく。
いっしゅんの後、女子社員たちから盛大な拍手が上がった。まぎれもなく梨花に軍配が上がった。
ほら見なさい。あなたの味方など誰一人いないのよ。美里と対峙するときには、百人の男を従えるつもりだったけれど、きょうは百人の女子社員だった。実際には百人はいなかったけれど。梨花は勝ち誇った笑みを浮かべた。
八木は、梨花への喝采がやむのを待って美里を会場の外へ引っ張っていった。けっきょく美里はひとことも発することができなかった。
なにをしに来たのだ。なにをいいたかったのだ。さっぱりわからない。よもや宣戦布告でもしに来たのではあるまいな。あとで八木に聞いてみるか。いやいや、聞いたところで八木だってわからないだろうな。まして圭太になど聞く気にもならない。
だいたい、なにをどうしたってあの女に勝ち目はないのだ。状況はそもそも出来レース。すべてのハンデは梨花のものだ。
はあ、だからメンヘラといわれるのか。理解するのはヤメだ。できる気がしない。
「梨花」
父に呼ばれる。
「八木は優秀ね」
父は苦虫を噛み潰したように渋い顔をしていたが、なにかわからないこの勝負に梨花が勝ったことには納得したらしい。
ふうっと一息ついてシャンパングラスに口をつけた。そのときだった。
あれ?
目を見開いて梨花を見つめる人物と目があった。
え? なぜ、ここに?
「ああ、野田くん。うちの娘を紹介するよ。なかなかやり手の実業家なんだよ」
父が呼んだその人は。
うそでしょ。
トオルだった。
周囲の音が遠ざかっていく。時間がとまった気がした。トオルも呆然と立ちつくす。あれ、ここは「waxing moon」だったか。ボーっと考えごとをしているうちに、ワープしたのだろうか。
いやいや、「waxingmoon」に父はいないな。
すでにキャパオーバーだ。美里との対峙でもういっぱいいっぱいである。梨花の脳は思考をやめた。
「野田くんはね、圭太くんと同期なんだよ。一番の出世頭だ。財務部長をまかせている」
同期……? ゆっくりと思考が再始動をはじめる。
「は、はじめまして。古川梨花です」
動揺を隠して取り繕う。
「あっ、ああ、はじめまして。野田透です」
野田。野田透というのか。心臓がバクバクをはじめた。持ったグラスがふるえそうだ。
ええと。いまの見ていたのよね。急に恥ずかしさでいっぱいになる。どうしよう。みっともなくはなかっただろうか。頬に血がのぼるのが自分でもわかる。
ダメだ。落ち着かないと。冷静に。冷静に。
ふうっと息を吐いて、なんとか気持ちを切りかえる。
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