常務の憂鬱
文字数 1,249文字
梨花が「孫はできないわよ」といったから。
「パパ、すごくショックを受けてたわ。自分のせいなのにね。ママはオイオイ泣くし、もう大変」
梨花は電話口でケラケラと笑っていた。最近の梨花はなにやら吹っ切れたようで、あっけらかんとしている。だが常務はそうではない。
かわいい娘が辛酸をなめさせられているのだ。しかも自分のせいで。そのうえ楽しみにしていた孫はできないと宣言されてしまった。
そしてそれは梨花が女としてのしあわせを放棄したということだ。女としてのよろこびも、あたたかい家庭も。常務ははらわたが煮えくり返るほど激怒していた。奥さんからもねちねちと嫌味をいわれるらしい。
「野田にしておけばよかったな」
この前、ぽつりと八木にいった。最近、とくに圭太の件があってから常務はこうして八木に愚痴をこぼす。立場上、こんなことをいえる相手はそうはいない。会社の中のこと、圭太と梨花のこと、どちらも話せるのは八木だけだ。
「野田さんはもう結婚してましたよ」
野田は圭太の同期だ。若手の中のツートップといわれていたのだが、野田ははやくに大学時代からの彼女と結婚し、松島常務の娘と結婚した圭太がトップに躍り出たはずだったのだ。それが圭太がドロップアウトしてしまい、いまや野田の独走状態だ。
「そうだったな。だからアレにしたのだったな。はあ、大失敗だ」
八木はその大失敗の男、圭太の心の隙に付け入る。
「常務もあんなところでいわなくてもいいのに」
圭太の瞳が揺らぐ。
「ああ、でも悪いのは俺だから」
そうだね。
「美里さんもひどい扱いだし。僕、同情してるんですよ」
「ああ、ありがとう。美里にも親切にしてくれたんだってね」
よし。来い、来い。
「たいしたことはできませんけど、話ぐらいならいつでも聞きますよ」
「悪いな。助かるよ、ありがとう」
キタ――! 弱った人間ってほんとにちょろいな。こいつらの懐深くもぐりこめば、常務にも梨花にもいい報告ができるだろう。
トオルと会うようになって一年余り、心の拠りどころを得て梨花はとても落ち着いていた。寛大ですらある。トオルさえいればもう、圭太と美里がどうなろうが知ったこっちゃない。
「こっちに帰ってこなくてもいいのよ」
一度、いったことがある。
「僕の家はここだろう」
圭太はむっとしてそういった。いまさらなにをいっているんだか。鼻で笑ってしまった。圭太は律儀に指輪を外さない。梨花の指輪は化粧水のとなりに転がったままほこりをかぶっている。それに気づいても圭太はなにもいわない。そういうお恩着せがましいところがウザい。
トオルのことを想うとき、圭太がじゃまなのだ。せっかくふわふわといい気持ちなのに、圭太が視界に入ると、一気に興ざめする。暗に出て行けといったつもりなのだが、こいつは勘も鈍いらしい。
父の人選ミスには、まったく恐れ入る。よくもこれで重役になれたものだ。たまに自宅で顔を合わせると、チクチクと嫌味をいってやる。罪悪感にさいなまれる父は、梨花に経営コンサルタントを紹介してくれた。
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