文字数 1,072文字


「月曜日、待っているから」
 それだけいってトオルはさっさと立ち去ってしまった。
 ええー? 会うの? 奥さんまで紹介されたのに。なぜトオルは平気なのだろう。でもな、と思う。行きづらい。バレたらトオルは困るだろう。はあ、と小さくため息をついた。
 疲れた。疲れはてた。のばし続けた背筋が痛い。あまりにもいろんなことがありすぎて。もう帰ろう。考えるのはあしたにして、きょうはもう寝てしまおう。あいさつもそこそこに、梨花はホテルを出てタクシーに乗った。

 明けて月曜日。夜になって梨花は新宿にむかった。葛藤はあったものの、待っているといわれたら行かないわけにはいかない。「waxingmoon」のドアを開けて店内を見渡す。トオルは店の真ん中に据えられた大テーブルの端にすわっていた。カウンターにすわらなくなって久しい。梨花もこの大テーブルでトオルを待つ。
 バーテンダーは梨花の顔をみると、にこりとうなずく。顔を見ただけでジントニックが出てくる。十数年も通っていると常連としてもベテランである。
 ジントニックを受け取ってトオルの隣にすわる。
「まいったね」
 すわったとたんに、トオルがいった。
「古川の奥さんだとは」
「心臓が止まるかと思ったわよ。しかもどんな字を書くんですか。なんていじわるだわ」
 トオルはクスリと笑った。
「梨花」
 いきなりそう呼ばれて、びくりとする。
「ほらまた。わざと」
 トオルは頬杖をついて梨花を見つめる。梨花は落ち着きなくそわそわしてしまう。
「梨花」
 若いころと変わりのない艶のある声で呼ばれると、腰のあたりがぞくりとする。
「見事な啖呵(たんか)だったな。惚れ直したよ」
 やっぱり見てたのよね。
「茶化さないで」
「ほんとだよ。最高にイケてた」
「もうっ」
「でも」
 トオルの視線が鋭くなる。
「俺はきみとの関係をやめるつもりはないから」
 トオルを見つめる。なんだか涙が出そうだ。うれしいのと、怖いのと。
「でも、自信がないわ。とくにあなたの帰る先を知ってしまうと」
 この先、恵子に会うことはないと思いたい。
「それは、おたがいさまだろう」
「うちの状況はごらんのとおりよ」
「……それもおたがいさまだな」
 そのことばに、梨花はハッと顔をあげた。梨花を見つめるトオルの瞳に熱がこもる。
「なんの問題もなければ、ここにはいない」
 たしかにそれは前々から思ってはいた。
「それに、何年たっていると思っているんだ。どうにかなるなら、とっくになってるよ」
 それもそうか。奥さんが、感づいたのか感づいていないのかは、こわくて聞けなかった。
「俺はこれからも、ここできみを待つよ。梨花」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み