文字数 1,309文字


 いよいよ、と透は動きを止めてヘッドボードに手をのばした。ピリ、と破く音を聞いて梨花が、あ、と声をあげた。
「どうした?」
 透が梨花を見る。見つめられて梨花は目を逸らす。いった方がいいだろうか。
「あの」
「うん」
「わ、わたし、もう妊娠しない……」
 それきり透は動かなくなってしまった。やっぱりいわない方がよかっただろうか。あまりの沈黙に梨花が不安になったとき、透はぽすっと梨花のとなりに落ちてきた。
「梨花ぁ」
 枕に顔をうずめたまま、なんとも情けない声をだす。
「どうなっても知らないぞ」

 寝返りをうとうとして、体の自由が利かないのに気がついた。うっすらと目を開けた。よくなじんだ男の肌が目の前にある。
 ああ、透だ。わたし、泊まっちゃったんだ。もぞもぞと手足を動かして、もう一度ぴったりと透にはりついた。大きく透の匂いを吸い込んだ。
 ああ、しあわせだなあ。
 梨花が動いたので、透も目が覚めたらしい。
「んんー。梨花」
 そういって、さらに梨花を抱き寄せる。透の男の機能も、梨花の女の機能も健在だった。むしろ三年の空白をおいた分、上がっていたかもしれない。
「外泊させちゃったな」
 透がいう。
「うん」
 無断で外泊したことはなかった。圭太から連絡はきているだろうか。
「帰したくないな。このままここにいてほしい」
「……ずるいわ」
「うん、わかってる。ずるいも卑怯も承知の上だ」
「いやっていえないもの」
 透はふふっと笑った。
「梨花、愛してるよ」
「もうっ!」
 梨花は透のあごをぐいっと押しやった。
「圭太とはちゃんと別れるから、もうすこし待って」
「待てないっていったら?」
「いじわるね」
 梨花はむうっとむくれてみせる。
「ははっ。うそだよ。ごめん」
 透は体を起こして梨花のまぶたをそっとなぞる。
「ほんとうに眉毛もまつげも白いんだな」
 途中でシャワーを浴びたとき、メイクは落としていた。どろどろに崩れた顔は見せたくなかったから。
「こっちも」
 透の手が布団の中へもぐっていく。
「やだ、もう!」
 梨花は体をよじって透の手をのがれる。ふたりでクスクスと笑いあう。
「ユリもきれいなままだったな」
「うん」
「俺は待ってるよ。きみが来てくれるまで」

 九時に迎えが来るという透をおいて、梨花は八時に部屋を出た。シャワーを借りて、メイクをし直して、透が淹れてくれたコーヒーを飲んで。それから途中まで送ろうという透の申し出を断ってひとりで外に出た。通勤通学の人々に(まぎ)れて歩きだす。
 意外なことに、透のマンションから梨花のマンションまで、徒歩で三十分ほどだった。日常モードに切り替えるにはちょうどいい時間だ。
 到着するころには、圭太も家を出ているだろう。さすがに顔は会わせにくい。スマホには「どうした? だいじょうぶか?」と圭太からのラインが来ていた。時間は深夜を過ぎたころである。
「飲みすぎて香苗のところに泊まった」
 と返信しておく。きのうからのほわほわとした気分が、すうっと落ち着いていく。いまだに夢だったのじゃないだろうか、と思いたくもなる。別れ際、連絡するよといった透の声さえも。けれどスマホに登録された「透」の文字と、体にのこる透の感触が現実なのだと告げている。
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