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「退職してどうするの?」
梨花は自宅のソファにすわった八木に聞いた。
父が勇退すると聞いた後、八木から連絡があった。
「常務は後任に野田部長を推薦しました」
父の会社のことは、自分には関係のないことだけれど、それでも透が後を引き継ぐとなれば、無視するわけにもいかない。
「パパはわたしとのことは知らないのよね」
八木に確認する。
「ご存じないはずですが。偶然です」
だとすれば、なおのこと何かしらの縁を感じてしまう。そして元気でいるのだなぁ、と安心もする。
八木は、父の勇退のあと早期退職するという。
「実家で両親が農家をしていましてね。もう年ですし、僕が帰って跡を継ごうと思いましてね」
「ええ? 農家をするの?」
なんだか似合わない。梨花はそう思ったけれど
「都会のど真ん中で働くのも疲れました。野田常務には僕の優秀な部下をつけますから、安心してください」
八木はそういった。
「兄弟がふたりいるのですが、ふたりとも家を出て会社勤めをしていまして、まあ、身軽な僕が戻ることにしました」
そういえば、いままで聞いたことがなかった。
「あなた、ご家族は?」
「僕は独り身ですよ」
「そうだったんだ」
自分の身を犠牲にしてまで、父のために働いたということか。それともたまたまその機会がなかったということか。聞くのはやめた。
「野菜、送りましょうか」
「嫌味なの?」
八木はくすくすと笑った。梨花はほとんど料理をしない。あれ以来、放棄していた。
「レシピもいっしょに送りましょうか。簡単な料理くらいできないと、だれかさんが呆れますよ」
「それも嫌味かしら」
透のことをいっているのだと思い当たって、思わずにらんでしまう。
「あちらはあきらめていないようですよ。僕は会うたびににらまれる」
「そんなこと、いわないでよ」
梨花はしおしおと小声になる。
「加藤には梨花さんの連絡先は伝えてあります。あちらのこともいってありますから、なにかのときはご遠慮なく」
なぜ期待するようなことをいうのだ。いじわるだなぁ、そう思ったとき、玄関のあく音がした。
「お帰りですね」
八木が立った。
リビングのドアを開けた圭太は、思いがけない人物に動きがとまった。
「八木くん?」
「ご無沙汰していました」
圭太と美里が閑職に移動させられてから、顔を合わせることもなかった。
「退職のごあいさつに伺っておりました」
圭太は戸惑うように梨花と八木の顔を交互に見た。
「え? 退職? 梨花に? なぜ?」
「パパのためにいろいろと働いてもらったのよ。ついでにわたしのためにもね」
その意味に気づいた圭太の顔からは、みるみる血の気が引いていく。
「……親切じゃなかったのか」
それには答えず、目を逸らせた。
「では、お世話になりました」
一礼して、八木はリビングを後にする。
「八木」
梨花が呼び止めた。
八木。
ヤギ。
その呼び方に、覚えがあった。梨花のスマホに時折出る通知の名前。
ずっと?
いや、最初から。
味方のふりをしていたのか。社内に出回る梨花に有利な情報の数々。自分と美里を徹底した悪者に仕立て上げた、身近なものでしか知りえない情報。
裏切られたんじゃない。そもそも、味方ではなかった。向こうの手先だったのだ。
だまされたのは自分だった。刃向かった敵の大きさを、改めて思い知る。
呼ばれてふりむいた八木の目に、梨花のいたずらっぽい笑顔がうつる。寄ってきた梨花は八木の首に腕を回した。
やれやれ、困ったお嬢さんだ。
八木は苦笑いしながら、それらしく見えるように、梨花の腰を抱いた。
「いままでありがとう」
「お元気で」
満足げに笑う梨花と、苦々しい顔の圭太を残して、八木は古川の家を後にした。
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