この先

文字数 1,189文字


 手術は予定通り、無事に終わった。予後を見ながら一週間から十日で退院となり、あとは通院での抗がん剤治療が始まる。
 家にいなさい、という父の一声で退院後も実家に戻ることになった。傷のせいで動きが悪いのもあったし、抗がん剤の副作用を考えるとひとりでマンションにいるのも気が滅入(めい)る。父のことばに甘えることにした。
 半年後を目途に、弟一家が同居することになっている。弟夫婦と高校生の息子と中学生の娘である。それまでには梨花も自分のマンションへ戻るつもりだ。
 両親ももう年なのだ。いつまでも甘えてもいられないのだなあと、実感する。父もそろそろ勇退を考えているらしい。そうなれば、圭太の枷もなくなる。離婚も退社も自由になる。もう時効なのだ。この先、ひとりで生きていくことも視野に、いろいろと考え直すときかもしれない。
 義妹と折り合いが悪いわけではない。盆正月に顔を合わせるには問題はない。ただ、いつまでも小姑が実家に入り浸ってはさすがにじゃまだろう。なにより梨花が遠慮する。
 さいわい、ひとりで暮らす分には不自由がないくらいの稼ぎはある。
 潮時かなぁ。
 圭太と結婚して、二十四年だ。そうか。来年は二十五年。銀婚式というのだったか。上っ面だけでも続くものなんだな。
 別れを考えた理由はもうひとつ。
 このまま死んだら、圭太と同じお墓に入ることになる。もしくは、圭太の実家のお墓だ。たいしてなじみのない圭太の両親と同じお墓に入るなど、考えたくもない。
 だったら、松島にもどって両親と同じお墓に入ったほうがいい。梨花のほうが先かもしれないが。
 いずれ、これが親に甘える最後だ。

 抗がん剤治療が始まった。通院しながらの点滴が半年続く。まもなく、全身の毛が抜け始めた。話には聞いていたが、いざ朝起きたときの枕に、ごっそりと髪の毛がまとわりついているのを見たときには、血の気が引いた。このまま禿げてしまうのか、と思ったら恐ろしかった。が、あっというまにきれいにスキンヘッドになった。眉毛もまつげもきれいに抜け落ちた。もちろん、アンダーヘアも。
 吐き気のために食欲もないから、みるみるやつれていく。ジムなど行けるわけもないから、体も衰えていく。がんばって作りあげていた筋肉がしぼんでいく。残った右のおっぱいすらしぼんでいく。鏡を見るたびにしわがふえていく。
 とてもじゃないが、人前には出られない。母が、ニット帽を編んでくれた。気分のいい日に、手芸屋にいっしょに行って、手触りのいいコットン糸を選んだ。黒とミルクティー色とサーモンピンクの三色。すっぽりと頭を(おお)い、目深(まぶか)にかぶれるように編んでくれた。
 病院に行く日はもちろん、近所を散歩するときもコンビニにゼリーやアイスクリームを買いに行くときもそれをかぶった。感染症対策のためマスクをつけると、もはや誰だかわからない。このまま社会の底に沈んでしまいたかった。
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