期待と不安

文字数 1,833文字


「でも、わたしまだ……」
「古川とは相変わらずなんだろう。さっさと別れてしまえよ。俺といっしょになろう」
 ああ、このままぐずぐずに甘えてしまいたい。
「別れたいとはいってあるのよ。でもなかなか、うんといわなくて」
「なぜ」
「病気のわたしを、放り出すわけにはいかないとか、なんとか」
「……いまさらだな」
「妙なところで律儀なのよ、あのひと」
 「あのひと」といういい方に、夫婦の情みたいなのものを感じて、透の心はすこしズキッとする。でも、それはおたがいさまだ。いってもしょうがない。
「それなら、あとは俺が引き受けるから、おまえは手をひけといってやるか」
 とても魅力的なシーンではあるが。
「ややこしくなるからやめて。加藤に細工は頼んであるのよ。だからもうすこし待って」
「……加藤か」
 八木だの加藤だのが出てくると、一気にきな臭くなるのはなぜだろう。それに梨花は、あいつらは一生日陰の関係だといっていたはずだが。
「きみから離婚をいい出したのか。どんな心境の変化だ?」
「笑わない?」
「笑うような理由?」
 父も母も香苗も笑ったのだ。
「同じお墓に入りたくなかったから」
 透は向こうを向いてしまった。肩がふるえている。
「やっぱり笑うんじゃない」
「いや、ごめん。たしかにいやだよな。そうか、それも病気のせいか」
「……うん」
「聞きたいことは山ほどあるな。白くなったわけも知りたいし。聞いてほしいことも山ほどある。今夜、時間ある? 食事をしながら話の続きをしよう」
 午後七時にこの場所で待ち合わせ。連絡先も交換した。
「もし、すれちがっても電話すればいい。これからは、いつでもどこでも話ができる」
 そういって透は笑った。梨花は手の中の透の名前を愛おし気にいつまでも眺めていた。

 サロンにもどって、がんばって平静を装う。なぜか真っ赤な目をした真紀にちらちらと視線をよこされ、香苗には不自然に無視され、とても居心地が悪い。
 それに梨花自身、いくらがんばっても落ち着かない。時間ばかり気になるし、スマホも気になる。通知音が鳴るたびにビクッとしてスマホに目がいってしまう。伝票整理をしていても気が散る。集中できなくて、トイレに立つ。コーヒーを淹れる。これは何杯目のコーヒーだろう。
「もう、帰ってください。じゃま!」
 とうとう香苗にいわれてしまった。
「デートなんでしょ。例の彼ですよね」
 香苗には、透のことは話してあった。手術以来、連絡を絶っていたことも。
「偶然会っちゃったんなら、もうそれは運命でしょ。さっさといってらっしゃい」
 半ば追い出されるようにサロンを出た。
 運命。運命か、これ。透はわたしの運命の人なのか。ひとりで歩きながら、ポーっとのぼせ上がる。もう、香苗ったら。
 自宅に戻ったものの、さてどうしたものか。
 待ち合わせ。透と。はじめて。
 五十を過ぎて、こんなに誰かのためにそわそわすることがあるとは思わなかった。
 どこにいくのだろう。なにを食べるのだろう。なにを着て行こう。気負ったレストランなのだろうか。
 と、とりあえずシャワーを浴びようか。脱衣所で服を脱ぎながらふと我にかえった。浮かれた熱がひいていく。
 この傷をみせるわけにはいかないよな。
「どんなきみだって、大事な俺の梨花だよ」
 透のことばがリフレインする。それでもこの傷を見たらやっぱり引いちゃうんじゃないだろうか。
 いやいや。きょうは会って話をするだけ。透のことを想うとへその奥がきゅうっとするけれど、会えるだけで十分しあわせだ。
 そういいながらも、ボディソープをもこもこに泡立てて、隅々までシャワーで流し、ボディクリームを丹念に塗りこむ。タンスの奥底にしまい込んでいたランジェリーを引っぱりだす。ずっと着心地の楽な下着をつけていたから、久しぶりの対面だ。なんだか、タンスの奥底の匂いがする。
 香水をひと吹きして着けてみる。四十を過ぎたころから、さすがにTバックは着なくなった。後ろ姿を鏡に映してみる。ヨガのおかげか、ぷよぷよした感じはだいぶ解消されている。ユリのタトゥーも健在だ。
「これなら、もしものときもだいじょうぶよね」
 左のカップの空間には、ふわふわした素材のボリュームのあるパッドをいれた。
「これでよし」
 不安をふり払うようにことばに出した。
 でも。
 わたしは女として機能しているだろうか。
 最後に透に抱かれたのが三年前。透の欲求に応えられるだろうか。新たな不安が持ち上がる。
 いやいや。きょうは会って話をするだけだから。
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