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期待と不安とあきらめの波状攻撃だ。梨花の心はいそがしい。Tシャツをかぶって、冷蔵庫から炭酸水を取り出す。グビッと一口飲んで、ふうっと息を吐いた。スマホを手にして、通知に気がついた。
あっ、透だ!
ラインが来ていた。十五分ほど前だ。
「気軽なレストランに行くから、普段着でいいよ」
梨花の顔がパッとほころぶ。
「そうか、普段着でいいのか」
わかった、と返信する。
香苗がいたら、舞い散るハートマークを手でふり払ったにちがいない。普段着とはいってもいつものコットンやリネンのシャツというわけにはいかない。ゆったりめのサーモンピンクのレーヨンのワンピースに、濃いグレーの厚手のニットカーディガン。
念入りにメイクをして、ヘアをととのえる。ずっとショートにしている髪は、軽くワックスをなじませるだけでまとまってしまう。ネイルは普段から抜かりはない。さっきランジェリーにかけた香水がほのかに香る。ハンドクリームを塗ったら、パールのイヤリングをして右手の中指に同じくパールの指輪をはめた。どちらも小粒のパールとメレダイヤをモチーフにしたものだ。
メイク用品とスマホを黒のハンドバッグに収めて、同じく黒のローヒールパンプスに足を入れた。
「よし!」
すこし時間は早いが、圭太が帰宅する前に家を出た。さすがに会うのは気まずい。あと三十分。ゆっくりのんびり歩いて行けば、待ち合わせ場所まで十五分から二十分。ちょうどいいだろうと思ったのに、ついつい足は速くなる。十分でもう着いてしまう。行きかう人々をながめながら待つのもいいかと思ったら、透はすでにそこに立っていた。
昼間のパーカーを黒いジャケットに変えただけなのに、遠目に見てもかっこいい。思わず足を止めて見惚れてしまう。もう五十も後半のはずなのに、体のたるみはいっさい感じない。ピンと伸びた背筋もすらりと長い足もがっちりした肩も、若いころと変わらないなあ、と思う。強いてあげるなら、重役らしい一種のふてぶてしさが加わったことか。それも梨花にむける笑顔は以前と変わらない。
梨花の視線を感じたのか、透がこちらを向いた。梨花に気づくと、満面の笑みで手を差し出した。駆けだした梨花はその手をとった。
「早いのね」
「待ちきれなくて、来てしまったよ」
もうそれだけでうれしい。透は梨花を引き寄せる。
「きみの好きなものも嫌いなものもわからなくて、どの店にするか決めかねていたんだ」
ああ、そうか。食事をするのもはじめてなのだな。
「なにが食べたい? なにが好き? うーん、ちがうな。嫌いなもの、食べられないものはある?」
「わたし、生ものが食べられなくて……」
「寿司とか、刺身とか?」
「そう。ステーキの赤いのもダメなの」
透はふっと笑った。
「かわいいな。うん、覚えた。じゃあきょうはイタリアンでどうかな。無難だけど」
かわいいといわれて、うれしくないわけがない。
「うん。大好き」
自分でも頬が熱くなるのがわかる。透が空いた手をのばして梨花の頬に触れた。
「血色がダイレクトに出るんだな。いちごミルクみたいだ」
そうだった。浮かれて忘れていた。
「気持ち悪いでしょ。白すぎて」
「どんな梨花もかわいいよ。いっただろう」
どうしよう。わたしはきょう死んでしまうのだろうか。
「色素が抜けてしまったの」
梨花は髪と肌が白くなったわけを話した。
「髪の毛だけじゃなくて、全部白くなったの。メイクで隠しているけど、眉毛とまつげも……」
そこまでいって、梨花はことばを止めてしまった。しばらく間をおいて、透はにやりと笑った。
「そうか。確かめないといけないことが、ひとつできたな」
しまった。余計なことをいったか。梨花の頬はますます熱くなる。
「ユリは?」
「あ、あるわよ。消えていない」
「じゃあ、確かめることはふたつだ」
気がつけば、手をつないで向かい合ったまま、三十分もたっていた。
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