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「腹がへったな」
透が連れていったのは、気さくなイタリアンがメインのダイニングバーだった。
「ここは、料理がうまくてよく来るんだ」
そういえば。
「透はこの辺に住んでいるの?」
「そうだよ。歩いて十分くらいのマンションに一人で住んでいるよ」
そうだったのか。運ばれてきたサラダやプロシュートをつつきながら、白ワインで乾杯する。
「運命って信じる?」
唐突に透が聞いた。きょう二回目だな、運命ってことば。梨花はポーっとしたまま思う。
「俺は、きょう信じたよ。偶然梨花に会えるなんて運命だよ、これは」
こんなにうれしいことばはない。
「うん、わたしも会えてうれしい」
「そろそろ加藤を締め上げて、きみの連絡先を吐かせようと思っていたんだ」
「ええ?」
「手荒な真似をしなくてよかったよ」
「加藤には、いろいろとわがままをきいてもらっているから、やさしくしてあげて」
「それの状況も聞かないとな」
エビとブロッコリーのトマトパスタと、ほうれん草とサーモンのカルツォーネを透が取り分けてくれる。
パスタを食べる透も素敵だな。
赤ワインをおかわりして、サルシッチャも食べると、おなかいっぱいである。
「まだ話し足りないな。もっといっしょにいたい」
店を出て、透が梨花を見つめる。そうなのだが。
「うちへおいで」
行きたいのはやまやまだけれど。なかなか、うんといえない梨花の手をひいて透は歩きだす。やだ、透が強引。でもそれがうれしい。なんだろうな。好きではない人にされるととても迷惑なのに、好きな人にされるととてもうれしいのは。
「もう離したくないんだ」
ゆっくりと歩きながら、透はいう。
「俺の知らないところで、きみが苦しむなんて我慢がならない。もし君が、この先つらい思いをすることがあるのなら、そのときは俺がそばにいたい。支えになりたい」
はじめて聞かされる透の想いに胸が熱くなる。
「あなたは」
梨花が見上げる。唯一色素の残ったその瞳は、凪いだ水面のように揺らぎのひとつもない。
「ずっとわたしの支えだったわよ」
「え?」
見つめていると、透明なのに底の見えない黒い深淵に吸いこまれそうになる。
「悲しくてくやしくて、そんなどす黒い渦に飲みこまれそうなとき、あなたにすがった。苦しくてつらくて、地獄の底の泥沼でおぼれそうなときも、あなたにすがった」
梨花は恥ずかしそうにうつむいた。何事もないように笑っていた裏に、そんな感情を隠していたのか。
透の胸がぎゅっと痛くなった。
「あなたがいたから、わたしはがんばれた。わたしがここに立っているのは、あなたのおかげ」
透はこみあげるものを、こらえるように天を仰いだ。ふうっと大きく息を吐くと
「もう、そんな思いはしなくていい」
そういった。
「うん」
答えた梨花の笑顔は純粋だ。
「きみが笑っていられるように俺ががんばるよ。だからきみは俺のとなりにいてくれればいい」
こんなにうれしいことばなない。
でも。
梨花はすこし躊躇する。
「きみがなにを恐れているのか、想像はつくが」
梨花はとなりを歩く透を見上げる。見つめかえす透の目はどこまでもやさしい。
「それも全部込みで、俺は梨花が大事だ。大好きだよ」
いったん冷めた酔いがまた回ってきたようだ。もう、まかせちゃおっかな。
「ありがとう。うれしい。わたしも透が大好き」
満足そうに笑う透の笑顔がまぶしい。自分にまたこんな笑顔が向けてもらえるとは思っていなかった。
あの日、圭太の裏切りが明るみにでた日からあのふたりの枷となって、地獄の底で泥沼に浸かってきた日々。透の存在だけを糧に生きてきた日々。透がそこから引きあげてくれた。明るい日の当たる場所に。絶対に切れない蜘蛛の糸で。
わたしもゆるされるんだ。また愛しい人のとなりに立っていいんだ。
梨花は失われた二十五年を取り戻した。
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