しかたないなあ

文字数 1,318文字



「やっと出た! どうしたんだ。心配したじゃないか」
「ああ、ごめん。ちょっと立て込んでて」
「連絡もできないほど?」
「会って話がしたいの」
 不審がって聞きたがる春人をなだめて、一時間後に渋谷で待ち合わせることになった。
「どうした?」
 春人は梨花の顔を見るなりそういった。ごまかしたつもりだったが、まぶたの腫れは隠しきれなかったようだ。きのうからのただ事でない様子に、春人も真顔になる。
 こじゃれたダイニングバーの半個室で向かいあってすわる。グラスワインと料理を三品ほど注文すると、春人は梨花の手を強く握った。
「どうしたんだよ。なにがあった」
 はあ。きのうから何回ため息をついただろう。春人の目が見られない。
「梨花!」
 ようやく顔をあげて、春人の目を見た。じわ、と涙がにじむ。状況がまったくわからない中で、いきなり泣かれて春人はうろたえる。
「わたし、結婚させられる」
「……は?」
 梨花はきのうのいきさつを話して聞かせた。はあ―、と今度は春人が深いため息をついた。
 そんな事情が本当にあるのか、と驚く。梨花の父親が大企業の重役であるのは知っていた。でも梨花本人はふつうの会社員だ。自分たちの結婚にそれほど関係があるとは思ってもみなかった。
 というか、結婚? 梨花は好きだ。愛している。結婚を考えていないわけではない。でもいまか? 入社六年目、新規プロジェクトのメンバーに選ばれた。社をあげての大規模プロジェクトである。これから一年間かかりきりになる。成功すれば社の業績も一気に跳ね上がる。春人にとっても正念場だ。
 仕事に専念したい。それが本音だった。ただ、そのために梨花をみすみすほかの男にやるわけにもいかない。
「いや正直なところ、三十くらいで結婚できればいいなと思っていたんだ」
 春人は頭を抱えた。その様子は梨花からすると、結婚を渋っているようにしか見えない。せかすつもりはまったくないが、こんなふうにのほほんとしている間に、日取りまで決められてしまう。現に古川ははっきりと宣戦布告しているのだ。煮え切らない態度に、梨花はいらだつ。
「男って、仕事を免罪符のように使うわよね」
 その怒気をふくんだいい方に春人はぎくりとする。
「わかった。梨花をほかの男になんて絶対にやらない。結婚しよう。ご両親にあいさつに行くよ」
 ようやく梨花はにこりと笑った。
 ほくほくとして家に帰ると、父はソファでくつろいでいた。
「パパ」
「おかえり」
「春人と結婚するわ。申し込まれたの。古川さんにはお断りしてね」
 父はふう―っと大きく息を吐いた。
「しかたないなぁ」
 梨花はあきらめてくれたかと、ほっとした。だが父はそれほど甘くはなかった。「しかたない」の意味がぜんぜんちがったのだ。

 春人と連絡が取れなくなった。週末にはうちに来て両親にあいさつするのではなかったのか。ラインも既読にならない。電話にも出ない。木曜日の夜、思いあまって春人のマンションに来てみた。時刻は八時。見上げても部屋の明かりはついていない。おそくても九時には帰ってくるはず。
 こんなところにじっと佇んでいるのは見るからに怪しい。ストーカー扱いされるかもしれない。でもいまの梨花にはそれしか手段がなかった。
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