決断

文字数 1,509文字


 圭太と梨花のマンションから、すこしずつものがへっていく。おたがいに気づかないままに。
 自宅なのに顔を合わせる機会もめっきり減った。こんな状態になって三か月め。
 もうそろそろかな。
「これからのこと、ちゃんと話し合いましょう」
 圭太にラインを送った。圭太からは、わかったと返信が来た。
 週の半ばの水曜日。梨花が自宅へ帰ったのが午後七時。季節は移って夏の真っ盛り。宵の部屋の中は、昼間の熱気がこもったままだ。エアコンのスイッチを入れてまもなく、まだ冷気を感じる前に圭太は帰ってきた。
「ひさしぶりね」
「そうだね」
 とても夫婦とは思えない会話だ。
「まだ、部屋が冷えていないのよ」
「帰ったばかりだからしょうがないよ」
 梨花はデリカテッセンで買ってきた料理をテーブルにならべる。プラスチックのパックから見栄えのいいようにちゃんと皿に移すくらいのことはする。
 それからバゲットを切り分けて、カゴに盛る。
 これから話し合いをするのにお酒はいらないな。
「なに飲む?」
 圭太に聞く。
「ああ。麦茶かな」
 グラスをふたつと、麦茶のポットを冷蔵庫から出す。
 軽く顔を洗ってきた圭太が、すわるころにはようやく部屋の温度が下がってきた。
「ふたりで食事をするのは、ずいぶん久しぶりだね」
「あなたはこういうとき、ごはんの方がいいのよね」
 圭太はすこし戸惑った顔をした。たぶん美里はなにもいわなくてもごはんを出すのだろう。
 はじめはそれくらいの小さなすれ違いだったはずだ。
 圭太が、ごはんの方がいいな、とひとこといえばよかった。
 そして、梨花はわかった、次はそうする、といえばよかった。
「離婚届をもらってきたの。書くわよね」
 一瞬、圭太は息をのんだ。
「あなたも責任を取らないとね。これ以上うやむやにはできないはずよ」
 圭太はじっと梨花を見つめる。
「きみはどこまで知っているんだ」
 梨花はそれには答えない。
「いつまでもどっちつかずで、結論を出さないのは卑怯よ」
 そういわれてしまえば、圭太はぐうの音も出ない。
「わたしも困るのよ。これ以上ずるずると先延ばしにされると」
 やはり梨花には恋人ができたのだな。ここ何か月か外泊するようになった。
 いままで、仕事一筋に打ちこんできた梨花の、それがしあわせならば送り出してやらねばなるまい、と圭太は思う。
 大きな傷を負った梨花を、それごと受け入れてくれる人物ならなおのことだ。
 覚悟を、決断をしなくては。
「わかった。書くよ」
 やっと引き出した圭太のことばに、梨花はほっと笑みを浮かべた。
「きみも先に進むんだろう」
「わたしのことはどうでもいいわ。あなたはあなたの責任を取りなさいよ。あなたがついていればすむのでしょう?」
 ぎくり。フラッシュバックのようによみがえる。思い出した。そういったのは加藤だ。美里にやたらと親切に声をかけてくる。
「八木だけじゃないのよ」
 ああ、いまだに松島常務から逃れられていないのか。
「だから早くすればよかったのに」
 圭太はぬるくなった麦茶を一気に飲み干した。
「ひとつだけ、僕の勝手を聞いてくれるか」
「面倒はいやよ」
「一年半後、再発していないと。それだけ教えてくれないか」
 梨花はため息をつく。それを面倒というのだ。
「いつまでも、別れた妻を気にするものじゃないわ。彼女に申し訳が立たないでしょ」
「それだけだ。勝手はわかっている。でもそれだけ、たのむ」
「しょうがないわね。もし、再発していたとしても、あなたの出る幕はないわよ。それに死んだとしても、お焼香もお断りするわ」
 それが、圭太への拒絶なのか、美里への気づかいなのかはわからない。
「きみはきっと元気だよ。いまと変わらない」
 そんな気がする。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み