潮時

文字数 1,338文字


 それでも、香苗をはじめ店長たちがお見舞いに来てくれると、うれしかった。サロンの経営について話し合うと、気持ちが明るくなった。ひさしぶりに声をあげて笑うと、わたしまだまだイケると社会の底から浮上してこれた。
 それからは、店長たちからはたびたび報告や相談があった。たぶん、梨花を現場に復帰させようと三人で決めたのだと思う。そのうちにほかのスタッフたちからもラインが入るようになり、サロンにも行ってみようかと思うようになった。まだお客の前には出られないけれど、直接スタッフたちと会ってみたかった。
 三か月ぶりにきちんとメイクをして、おしゃれをしてハイヒールをはいてサロンに出向いた。ウキウキする。サロンの仕事が好きなのだなぁ、としみじみ自覚する。
 閉店後のお客がいなくなった時間を見計らって、香苗のサロンのドアを開けた。
「梨花さん!」
 たちまちスタッフたちに囲まれた。すこしやつれ、目深にニット帽をかぶった梨花の姿にスタッフたちの顔がこわばる。
「おいたわしい……」
 梨花はマスクをずらして笑って見せる。
「抗がん剤治療が終わるまでは、こんな感じね。しかたないわ。終わったら完全復活するわよ!」
 グッとこぶしを握る。サロンに来ると、自然とそんな強気なことばが出る。スタッフたちからも、ほっと力が抜けた。
 ひさしぶりに香苗にケアをしてもらう。ほったらかしだった爪が形をととのえられ、甘皮もささくれもきれいに処理されていく。がさがさだった指先がパラフィンパックされてつやつやになると、気持ちも晴れていく。
「はあっ! 生き返った気がする!」
 仕上がった手を(かか)げてみる。おおげさな、と香苗に呆れられたが、ほんとうだ。まだ治療中だからネイルはできないけれど、ピカピカになっただけで無敵になった気がする。
 よし! 仕事に専念しよう! わたしには仕事しかないのだ。透への想いは胸の奥底へしまいこんで、ふたをする。
 もう、透のことはきっぱりあきらめよう。手術が終わったあとに見た、自分の左半身がフラッシュバックのようによみがえる。前面はもちろん、背中にまで大きく広がった赤黒い内出血。そこにななめに走る大きな傷跡。
「二週間もすれば、内出血はひきますよ」
 なぐさめるように看護師がいったけれど、こぼれた涙はしばらく止まらなかった。乳房再建の説明も受けたが、透に会わないのなら必要ない。傷がふえるだけだ。そう思ってやめにした。
 それがなくても、五十才を過ぎたら体の衰えは隠しようがない。いくらがんばってトレーニングを積もうが、筋肉はしぼんでくるし、肌のはりつやも失われる。顔の小じわだって隠し切れない。いくらマッサージをし、電気をかけ、超音波をかけても限界がある。
 四十を過ぎたころから感じていたのだ。どんな手段も追いつかないと。このまましわしわにしぼんでいく自分を透には見られたくない。
 潮時なのだ。すべてが。
「デザインはしてくださいよ。調子のいいときでいいから」
 香苗がそういったのは、半分なぐさめかもしれない。
「そうね。そろそろウォーミングアップをはじめようかな」
「お客様もお待ちですよ」
 右手は自由に動く。治療のペースにも慣れた。もう圭太のマンションに戻るべきかもしれない。決着をつけるためにも。
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