ネイルとタトゥー

文字数 1,436文字



 バー「waxing moon」に通い始めて三か月すぎたころだった。いつものようにバーのドアを開けてカウンターにむかおうとしたところ、ドンっとぶつかった人がいた。
「あっ、ごめんなさい」
 ひとりの女だった。梨花より少し年上だろうか。梨花は、いいえと答えて彼女の一点に目をひかれた。ノースリーブからのびた二の腕の肩に近いところに鮮やかな深紅のバラが咲いていた。
 そのタトゥーは、ラッパーや外国の若者のようにいかついものではなく、細い繊細な線で縁取られていた。はかなささえ感じる。
「きれい……」
 梨花は思わず口に出していた。
「あら、ありがとう」
「あ、ごめんなさい。不躾(ぶしつけ)でしたね」
「いいえ。正直にほめてもらってうれしいわ。この人が彫ったのよ」
 腕をつかんで引っ張ったのは、長い髪を後ろでひとくくりにした黒ずくめの男だった。Tシャツからのぞいた腕にも赤いバラが刻まれていた。こちらはやや太めの線で、男性らしい力強さが感じられる。同じバラなのにこうも印象がちがうものかと梨花は目を見開いた。
「背中にはドラゴンがいるの。ほら脱いで見せなさいよ」
「やだよ。なんでここで脱がなきゃならないんだ」
「えー、かっこいいから見せたい」
 のろけているんだろうか。それよりも梨花は彼女のネイルに目がいってしまう。
「ネイルもきれいですね」
 ほどよい長さのオーバルは、濃紺に染められ、星空のようにストーンやラメが散りばめられていた。
「あら、ありがとう。わたしがつくったのよ。ネイリストなの」
 ネイリスト。梨花はそのことばに思わず自分の爪に目をやった。
「あなたのネイルもきれいね」
 彼女がそういった。たしかにお手入れは怠ってはいないけれど、きょうもスモーキーピンク一色の地味なネイルだ。
「仕事柄地味にしているんだけど、ほんとうはもうすこし華やかにしたいんです。とくに、こういうところに来るときは」
「たしかにそうね。それならネイルチップにしたらどう? テープで貼ればはがすのは簡単よ」
 それも考えたことは考えたのだが。
「サイズがいまいちわからなくて……」
「じゃあ、うちのサロンに来てみる? すぐそこなのよ」
「えっ? いまから?」
「うん、このタトゥーをきれいだといってくれたお礼よ」
 ほらほらと、なかば強引に連れ出されてしまった。店に入ったばかりで、ドリンクさえ注文していない。目があったバーテンダーは、苦笑しながら手を振った。やれやれと、しかたなくついていくと、歩いて五分ばかりの古い雑居ビルに入っていく。
「ごめんね、マイが強引で。飲みたかったんでしょ」
 なぜかついてきた彫師の男がいった。彼女はマイというのか。
「ああ、でもネイルにも興味ありますし、だいじょうぶですよ」
「いいじゃないの。せっかくめぐり会ったんだもの」
 いや、そんな運命的にいわれても困る。二階の一室の前で立ちどまる。
「ここがわたしたちのサロン」
「わたしたち?」
「そう、ネイルとタトゥーのサロンなの」
 それで彼もついてきたのか。聞けばカップルで経営しているのだとか。
 部屋はパーテーションで二つに区切られていた。手前がネイルのスペース。奥がタトゥーのスペース。どちらも仲が見えないようにパーテーションで囲われていた。マイが中を見せてくれる。
 白を基調としたインテリアは清潔的で洗練されている。道具はきちんと整理され、脇の小さな丸テーブルには見本がきれいにならんでいた。
 マイがたくさんならんだ小引き出しの一つを開けてネイルチップを出して見せる。
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