満ちていく

文字数 1,496文字


「いつまでも意地悪いわないの。それでも偶然出会ったのなら、もうそれは運命でしょ。素直にゆるしてあげなさいな」
 とうとう、母が口を出した。
「ごめんなさいね」
 と母は透にむかっていった。
「いつまでも娘離れしなくって。この年になってもまだ甘やかそうとするのよ。あの世まで連れていくつもりじゃないかしら」
 そこまでいわれて、父はようやく追及をやめた。母の口添えで、渋々ではあるがふたりの関係を認め、透の冷や汗も止まったのだった。
 移住の件も、好きにしたらいい、と突き放し気味ではあるがゆるしてくれた。ただし条件がひとつ。
「わたしか、ママに万が一のことがあったらすぐに帰国すること。これは絶対だ」
 これに対する透の答えもひとつ。
「もちろんです。なにをおいても必ず帰ります。なにがなくても年に一度は帰るつもりですから、安心しておまかせください」
 それを聞くと、父はようやく安堵のため息を漏らした。
「梨花にはつらい思いばかりさせてしまった。この先、ひとりで残すことだけが心残りだったんだよ」
 そういうと、正面から透を見据えた。
「たのんだよ。たまに八木を偵察に送るからな」
 本気なのか冗談なのか判断のつきかねることをいって、透をビクッとさせた。
 梨花の実家を辞して、はあ、やれやれ。一仕事終えた気分で透は大きく息を吐いた。
 もうじき還暦である。この年になって、お嬢さんをくださいと頭を下げるとは思いもしなかった。つい先だっては逆の立場だった。お嬢さんをくださいと頭を下げた娘婿に、たのんだよと偉そうにいっていたのに。
 めまぐるしい。ボケ対策にはいいかもしれない。それにしても、松島常務の元気なこと。常務を退任してずいぶん経つが、透の中ではいまだに現役の松島常務である。
 九十を迎えると思うが矍鑠(かくしゃく)としている。耳もちゃんと聞こえるし、眼光は鋭いし、ボケのボの字もない。ゴルフに行っても、十八ホール平気でまわれそうだ。
 気を引きしめなくては。七十八十でよたついたら梨花に嫌われる。がんばろう。

 透は、梨花といっしょに住むにあたって、もう少し広いマンションに引っ越そうといったのだが、今のマンションでもふたりで住むには十分だし、あと一年ちょっとで移住するのだからといって、梨花がそのまま転がり込む形になった。
 もともと、透ひとりで持て余していた間取りだったので、梨花の荷物が増えたところで特に問題もなかった。
 ただ、入籍に関して梨花がごねた。
「だって、野田梨花って、メタリカみたいじゃない?」
 またしょうもないことをいい出すなぁ、とそれでも透はへらりと笑う。
「野田でもメタでも、俺のかわいい梨花じゃないか」
 そういってキュッと鼻をつままれば
「えー? そうかなぁ」
 とデレてしまう。加藤にケッと鼻で笑われそうである。
 婚姻届けを出されて
「ほら書いて」
 と催促される。
「書かないと指輪を買えないじゃないか」
「……ゆびわ?」
 梨花がほわんと聞き返す。
「そう。結婚指輪。どれがいい? ハリーウィンストン? ブルガリ? カルティエ?」
 梨花の瞳は遠くを見る。気持ちがほわほわと浮いてくる。
「……カルティエ?」
「そういうと思ったよ。きみの雰囲気にぴったりだ。だからさっさと書いて提出しよう。それから指輪を買いに行こう」
「うん」
 簡単に丸め込まれてしまった。

 圭太も無事に、新居への引っ越しが終わった。家財道具の処分と賃貸だったマンションの引き渡しを圭太に押しつけたのだが、もうふたりとも新生活への期待で満ちていたせいか、別れは非常にあっさりとしていた。
「じゃあ、元気でね」
「うん、きみもな」
 ふたりとも振りかえることはなかった。
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