ひれ伏せ

文字数 1,380文字


 一時間ほどの記念式典の後、歓談がはじまった。式典中は圭太も所在なさげに梨花のとなりに立っていたが、終わったとたんにどこかへ行ってしまった。重役集団の中にいるのは、さぞかし居心地が悪かったろう。
 さっそく奥方たちに囲まれる。
「やってみたいけれど、ネイルサロンなんていったことがないのよ」
「あまり派手なのはこまるわ」
「爪のカタチが悪いのよ」
 それぞれ、お悩みがある。
「お電話いただいたら、予約をお取りしますから」
 そういって梨花は名刺を配る。奥方たちはその梨花の爪にじっと見入る。
「それ、すてきね」
「ありがとうございます」
 これにして正解だったな。
「ご希望があれば、なんなりと承ります」
 にっこりと優雅に微笑む。ひとりひとりの手をとって、こうしましょう、ああしましょうと提案をする。すると奥方たちは喜んで、かならず予約するわねとおっしゃる。奥方たちへの営業がおわると、今度は秘書のお嬢さんたちに囲まれた。
「いっしょに写真撮ってください」
「ええ?」
 まるで芸能人あつかいだ。まあ、これも営業の一端(いったん)かと、にこやかに写真に納まる。なんだか、悪目立ちしているようで気が引ける。
「この前、ようやく買えたんですよ」
 そういって、見せてくるお嬢さんもいる。見れば、最新作だ。
「お気に入りで、使いすぎて艶がなくなっちゃったんです」
「サロンに持ってきていただいたら、トップコートぬって差し上げますよ」
「ほんとうですか? じゃあ、予約します」
 ここでも名刺を配る。若い人たちはネットを見ればいいじゃないかと思ったのだが、やはり名刺がほしいという。リカに直接会ったと自慢するのだという。

 そのとき、うしろがざわついた。

 梨花を取り巻いた女子社員たちのすこしうしろ。地味目の女。梨花が視線を上げると目があった。なぜここに来た。来るなといったはずだ。
 圭太が走ってくるのが見えた。その女のさらに後ろに八木。女子社員たちも異変に気づいて振りかえる。
 梨花の目と八木の目が合う。いち早く八木が動いた。
「美里さん! ダメですよ、ここに来ちゃ!」
 八木のわざとらしい大きな声が響く。そんなことをいったら、表に出てくるなといっているようなものだろう。周囲がいっせいにこちらを向いた。一歩出遅れた圭太がしまったという顔をして途中から動けなくなった。
 いまここで、愛人をつれ出せば妻を放置したことになる。それはどうあってもできない。まして常務の目の前で。
 八木は優秀だ。いわなくてもこちらの思惑通りに動いてくれる。
 ざわめきが大きくなる。美里自身が思った以上の事態のおどろいているようだ。事を起こすなら、先々まで読まないとダメなのよ。
 だいたい、その程度でわたしに勝てるとでも思ったのか。わたしは十数年、あんたを見下すために自分を磨き続けてきたのよ。その集大成、とくと御覧(ごろう)じろ。
 そしてひれ伏せ。警告を無視するからこうなるのだ。
 父が半歩前に出たのを、梨花は制した。
「だいじょうぶよ」
 そう小声で告げた。八木が美里の腕をつかんで、さあどうぞ、と生贄(いけにえ)を差し出している。梨花はゆっくりと歩きだす。背筋をのばして、まっすぐに顔をあげて。
 女子社員たちがふたつに割れて道を開けた。美里の前に立つ。わずかに梨花の方が目線が上だった。がんばって十センチのハイヒールをはいてきてよかった。梨花はにっこりとほほ笑んだ。
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