不幸じゃない

文字数 1,400文字


「離婚しようと思うの」
 母にそういったのは、あと一回の点滴で抗がん剤治療が終わるというときだった。母に誘われてイタリアンレストランでランチをし、実家に戻って母にネイルケアをしていた。ボルドーのネイルカラーをぬりながら、ぽつりといった。
 あまり派手なものを好まなかった母は、ここ数年濃い色のネイルを梨花にねだる。
「明るい色は似合わないのよ」
 たしかに、梨花自身もピンクやオレンジは似合わなくなった。妙に爪だけ浮いてしまう。思い切ったボルドーやネイビーのような濃い色のほうがしっくりくる。年のせいだなどと、ひとことですませたくはないがやはり年のせいだと思う。
 中指にバラのモチーフをのせてもらいながら、
「そう」
 とひとことだけ母はいった。
「でもね、いざとなると面と向かっていいにくいのよ」
 ふふっと母は笑った。
「そりゃね、二十四年も夫婦をしていれば、簡単にはいえないわね」
「こんな夫婦でも?」
「どんなでもよ」
「今回、あんな夫でも頼りになるんだなって思った」
「そう」
「それに再発したときに、ひとりでいるのは怖い」
「わたしもパパもまだまだ元気よ。頼りにしてちょうだい」
 まだ甘えさせる気か。

「圭太と同じお墓には入りたくない」
 母は大きな声で笑い出した。
「あはは! そうなるか。そうなるわね」
「死んでまでもいっしょにいたくないわ」
 そういって気づいた。長年圭太を縛り付けていたつもりだったが、同じくらい自分も縛られていたのだ。二十数年もつまらない見栄にがんじがらめになっていて、梨花も圭太もあのマンションから動けなくなっていたのだ。
「ごめんね」
 母がぽつりといった。思わぬ謝罪に梨花が目を上げると、母の悲しそうな顔が目の前にあった。
「良かれと思ったのよ。わたしもパパも。圭太さんならあなたを路頭に迷わすこともないし、大事にしてくれると思ったの」
「ああ、そのこと」
「あの時点では出世コースも約束されていたしね。梨花もゆくゆくは重役夫人だったはずなの」
「こんなくだらないドラマみたいな展開になるとはだれも思っていなかったわよね」
 梨花は苦笑いする。
「パパがどれだけ怒ったか」
「八木からすこしは聞いてるわよ。ふたりそろってずいぶん惨めな思いをしているらしいじゃないの」
「だからといって、あなたが報われたわけじゃないわ」
 それでも、別れずに二十数年間愛人関係を続けた根性は認めてやってもいい。
「結婚は失敗だったけど、わたしは不幸ではなかったわよ」
 母は救いを求めるような目ですがる。
「仕事は順調だったし。いいスタッフにも恵まれた。経済的にも余裕がある」
「いい人もいたんでしょう」
 トップコートを塗っていた手がぎくりと止まる。
「見てればわかるわよ。べつに責めないわよ。人の道にはずれるようじゃ困るけど」
 アウトです。ごめんなさい。
 でもたしかに透の存在は大きかった。透がいたからこそ、がんばってこれた。じゃあ、あのような形でも透がいてくれたら、これからも耐えられるんだろうか。
 たぶん無理だな。ひとり身になったとたん、わがままをいい出すに違いない。帰らないでくれ。ずっといっしょにいてくれ。そんな見苦しいわがままをいって、透を困らせるのだ。
 そんなふうに透に嫌われるのなら、会わないほうがいい。これでいい。まちがっていない。すこしの辛さと寂しさをやり過ごすだけだ。
「わたしはだいじょうぶ。でも寂しくなったらなぐさめてね」
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