文字数 1,200文字


「どうした? なにがあった」
 透は握った手を放してくれない。
「誰かに見られたら……」
「気にすることはないよ」
 そういって透は、近くのベンチに梨花をすわらせた。
「なにがあったのか、話してくれるね?」
 手を放す気はないらしい。梨花にぴたりとすき間なく寄りそってすわる。
「しゃ、写真撮るのね」
「ん? うん、これはただの趣味。そうじゃなくて!」
「ああ、うん」
 話したら嫌われるのじゃないだろうか。怖くて透の顔が見られない。それでも透が握った手はやさしい。
「話して」
 透の声はやさしいけれど、逃がしはしないという強い意志が感じられる。逃げられないのだな。梨花は大きく息を吐いた。
「……乳ガンになったの」
 透が息をのんだ。
「手術でね、こっちのおっぱいを取ってしまったの」
 空いた手で左の胸を押さえる。
「いまは? だいじょうぶなのか」
 透の声は心なしか震えているように思う。
「経過観察中。再発がないか、半年に一度検査を受けているの。それに……」
「……うん」
「大きな傷ができてしまって……」
「そうか……」
「こんな体、あなたには見せられない。もう女として終わったのよ」
「だから、会えないと……?」
 梨花は小さくうなづいた。
「いつ再発するかもわからないし。それにこんなに白くなってしまったし」
 梨花の声はどんどん小さくなっていく。
「こんな体で会ったら、わたし嫌われちゃう」
 透は、ふうっとひとつ息を吐く。
「俺もずいぶん、しわも白髪も増えた。腹だって若いころにくらべたらぶよぶよだ。老眼鏡がないと新聞も読めない。そんな俺はきらいか?」
 そんなわけない。梨花はふるふると首を横に振る。
「まさか。そんなわけないじゃない」
 透はフッと笑った。
「俺だってそうだよ」
 梨花はハッと透を見上げた。
「ばかだな」
 ことばとは裏腹に、透の声は限りなくおだやかだ。そして、梨花の肩をやさしくさする。
「俺がきみを嫌うわけがない」
 目が合うと、透は笑いかけてくれる。
「どんなきみだって、大事な俺の梨花だよ」
 梨花の目に、じわっと涙が浮かぶ。
「でもわたし、こんなに変わっちゃった」
「そのわけは、ちゃんと聞くよ。ああ、聞くこともたくさんあるし、話すこともたくさんあるな」
「話すこと?」
「俺、離婚したんだ」
「え?」
 たしかに、握った手に指輪はない。わたしのせいだろうか。梨花は思ってしまう。
「きみのせいじゃないよ」
 戸惑いを隠せない梨花に、透はくすりと笑った。
「この間、下の娘が結婚してね。それで親の役目は終わりで、夫婦のゴールでもあったんだよ。話し合ったことはなかったけれど、ふたりともそう思っていた」
 娘がいたのか。はじめて聞く家族の話。
「娘が結婚するにしろ、しないにしろ、六十になったらどのみち別れるつもりだったんだよ。そうしたらきみを迎えに行こうと思っていた。まさか、きみが病気で苦しむなんて考えもしなかったから」
 それはとてもうれしい。でも。
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