文字数 1,373文字



 圭太と同じくらいだなとは思った。だけどまさか同じ会社の同期だとは思いもしなかった。しかも部長とは、重役コースじゃないか。
 そういえば何年か前、国産メーカーだった腕時計が、外国製の高級ブランドに変わった。あのとき昇進したのだろうか。当時は奥さんからのプレゼントかもしれないと思うと、とても口に出せなかった。
「そちらは奥さんかい?」
 なぜ父は見透かしたよういうのだ。一瞬の間をおいてトオルはいった。
「はい、恵子です」
 彼のとなりに立つのは、おそらく梨花よりも少し年上の和服を着た女性。紹介されると、はじめましてとにっこりほほ笑む。
「有名なネイリストなんですってね」
 ひぃ!
「いえ、それほどじゃありません」
 顔が引きつってはいないだろうか。背中を嫌な汗が流れていく。
「わたしなんか、そういうことにとても疎くて」
 部長夫人としては十分だろう。りっぱな訪問着に負けていない。すこしぽっちゃり目ではあるけれど、お肌もしっかりお手入れされている。
「わたしもお名刺いただいていいかしら」
「もちろんです。ご予約お待ちしています」
 あげないわけにはいかない。なにか感づいただろうか。もうトオルの顔も恵子の顔も見られない。バレたらどうしようと、気が気じゃない。素性がわかってしまったら、もう会えないのだろうか。奥さんにも身バレしてしまったし、もしバレてしまったら、追及されてしまうだろう。トオルをそんな目にあわせたくはない。
「リカさんはどういう字を書くのですか」
 それなのに、トオルはずけずけと聞いてくる。なぜ余裕綽綽(しゃくしゃく)なのだ。やめてほしい。部長を務めるような人間は、ものに動じなくて肝もすわっているのかもしれない。梨花はちょっとしたひとことやしぐさでバレるんじゃないかとひやひやしているのに。
「梨の花、と書きます」
 必死で平静を装う。
「梨、ですか」
 トオルはおもしろそうににやりと笑った。ユリじゃなく? と顔に書いてある。
「はい、梨です」
 横にらみでつっけんどんに答える。なにをにやにやしているのだ。これ以上は勘弁してくれと思ったとき、女子社員がふたりやってきた。
「あのう、リカさん」
「はい」
「わたしたちも写真撮っていただけませんか」
 これ幸いと、梨花はその場を離れた。彼女らに囲まれて微笑みながら写真に納まる。合間にちらりとトオルに目をやる。トオルはこちらを見ることもなく、にこやかに重役たちと話していた。梨花はどこかほっとしていた。
 女子社員たちは入れ替わり立ち替わりやってくる。カメラをむけられながら、なんでこんなことになっているのだろうと梨花は思う。梨花はただのネイリストだ。芸能人でもないのに。雑誌の取材は受けたことはある。でも、こんなに騒がれるほどとは思っていなかった。
 たぶん父親が大げさに吹聴したのだ。それか、噂の寝取られ妻がそこそこ人気のネイルサロンを経営しているのがおもしろかったのか。これで父の鬱憤(うっぷん)は晴らせたのだろうか。
 女子社員の波が去って、はあ、とため息をつく。疲れた。名刺も底をついた。そろそろ帰ってもいいだろうか。その前にもう一杯ソフトドリンクをいただこう、とカウンターに行く。ウーロン茶を注いでもらっていると隣に人の立つ気配がした。見なくてもわかる。トオルだ。この人の体がもつ熱や匂い。わかってしまう。それほどに馴染んでしまっていた。
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