文字数 1,686文字


 十時半を回って、そろそろ帰ろうかと腰を上げようとすればみるみる目に涙をためる。小さくため息をついて、ネクタイをしめなおせば、その腕をつかんで離そうとしない。
「帰らないわけにいかないんだよ」
 手を離そうとすれば、涙をこぼす。
「いや。帰らないで。いっしょにいて」
「美里」
 諭すようにいえば、さらに首を横にふる。
「眠れないの。こわいの。ひとりになりたくない。おねがい、いっしょにいて」
 泣いてすがるのを、振りほどくほど冷酷にもなれない。美里が眠りについたらこっそりと抜け出して帰ろうと思った。が、美里はそれを許さなかった。
 朝起きて圭太を認めたときの、美里のしあわせそうな顔もまた、愛おしいには違いない。
「古川さんが、ついていてあげればいいでしょう」
 といったのは、誰だったか。
 自分が悪いのだ。美里を逃げ道にしていたから。しわ寄せを全部美里に背負わせてしまった。
「あんたが加害者よ」
 梨花にいわれたことばは今でも忘れない。梨花にも美里にも自分は加害者なのだ。すべての責任がうやむやのままだ。

「自律神経失調症だそうです。ひとりでいるのがこわいとめそめそしてましたよ。古川さんも根負けしたんじゃないですか」
 加藤はどこまで付け入っているんだろう。人の健康まであやつるとはなんて恐ろしいやつだ。
「あとは外泊を逆手にとって、梨花さんがうまくやってくださいよ。家庭内まで僕は手出しできませんからね」
「わかった」
「ぬかるなよ!」
 そういって、ブチっと電話は切れた。
 うわー、命令されたー。若造のくせにー。だがせっかく加藤が作ってくれたチャンスである。この絶対好機を逃すわけにはいかない。
 圭太は週の半分、帰らなくなった。梨花も梨花で透のところに泊まる日が増えた。完全なすれ違いである。
「もうしばらくこの状態が続いたら、さすがに圭太も離婚を認めざるをえないわよね」
 シャワーを浴びた後の髪を拭きながら、梨花はいった。透の部屋にはだんだん梨花のものが増えていく。二本並んだ歯ブラシ。パジャマ、下着、化粧品。堂々と並べておいてもいいのだと思うと、なんだか優越感が芽生えてくる。わたしが透の恋人なのだとは、まだいえない。はやく離婚を成立させないと。
「うん、そうだな。それと並行してなんだが」
 透がすこし改まる。梨花は頭を拭く手を止めた。
「俺が六十になったら、常務を退任しようと思う」
「え?」
「マレーシアに移住しようと思っているんだ」
 まれーしあ? 
 あの細長い半島のどこかだな? 
 口から水を吐いている白いのはどこだっけ?
 ぽかんとした梨花に透はやさしげに笑いかける。
「クアラルンプールで不動産投資をしていてね。いくつか持ちビルがある。共同出資だけどね」
 バブリーな透も素敵だ。
「その中のマンションのひとつに住もうと思うんだ」
「……へえ」
 あまりに現実離れした話に、他人事のように返事をしてしまった。
「きみにもいっしょに来てほしいんだよ」
 思考が回りはじめるまでに、すこし時間が空いた。
「どうして移住?」
「もう十分働いた。人生も折り返したし、これからはなんのしがらみもないところで、のんびり暮らしたい。それがきみといっしょなら、この上ないしあわせだ」
 あと二年。そうだ。あと二年すれば、ガンの再発率もぐっと下がる。
「それに住みやすいんだよ。物価も安いし、インフラも整っている。日本人コミュニティとのつながりもできた。日本人の医者もいるから安心だよ」
 そういえば、グランドスタッフをしていたころは、何回か東南アジアにいったな。マレーシアも行ったっけ?
「透は行ったことあるの?」
「うん、何回かね。今度いっしょに行ってみよう。きっと気にいるよ」
 透といっしょに海外旅行……。
「ええー。夢みたい」
 梨花は夢見る少女のようにポーっとなる。
「この先暮らしていくには十分な貯金もある。そのほかに不動産収入があるから、すこしぐらいならぜいたくができるよ」
「あっ、わたしも余裕があるわよ」
「うん、じゃあふたりでデートをして、おいしいものを食べて、楽しく暮らそう」
「うん」
 梨花の気持は、ふわふわとのぼっていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み