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そして、次女の妊娠。長女のときとちがって、つわりがひどかった。長女は二才になっていたけれど、まだまだ手がかかる。加えて、家事、仕事。電車通勤もままならなくなって、ついに退職を決めた。
ここでも
恵子は、つづけたかった仕事をやめざるをえなかった、と思った。いずれ企画開発へ戻りたいと思っていたのに。
このときも透はふたりの間にできた壁に気づかなかった。
透がはじめて、その存在に気づいたのは、次女の幼稚園の運動会のときだ。
夫婦ふたりで子どもの写真を撮りながら、親同士あいさつを交わす。面倒なこのやり取りも透は卒なくこなしたつもりだった。
「あなたはいいわよね。こんなときだけいい父親
突然放たれた恵子のことばは、鋭い棘となって心に突き刺さり、何年たっても何十年たっても、抜けることはなかった。恵子にとっては何気ないひとことだったのかもしれないが、透にとっては致命傷だった。
外へ出れば、仕事のできる男の仮面をかぶり、家へ帰ればいい夫と父親の仮面をかぶり、心が安らぐ場所がなかった。恵子に触れるのもためらいが生じる。自然と体を重ねる回数は減っていった。
そんなとき、大学の同級生からたまにはみんなで集まろうと誘いがあった。学生時代の友人はいい。なんのしがらみも建前もない。杯を重ね酔いも回り、ついつい愚痴が口を突いて出た。男ばかりだったから、気兼ねなく家のこと、仕事のこと、くだをまいた。
そのうち、友人の一人がこっそりと耳打ちをした。
「発散できるいいところへつれて行ってやるよ」
そうやってつれて行かれたのが新宿のバー「waxingmoon」だった。
「あと腐れなく遊ぶにはちょうどいいだろう」
友人はそういった。週一で通って、手当たり次第に見ず知らずの女を抱いた。ちょうどいい発散だった。
そして、二か月目にリリィと呼ばれていた梨花を見かけた。孤高の花のような存在だった。手の届かない崖の上に咲く大輪の花。バーの中でも注目の的。とても自分など手が届かないだろうと思った。それでも何度か見かけるうちに、どうしてもこの手の中に欲しくなった。あの花をこの手で愛でたい。そんな思いが強くなっていく。
そして、ひと月たってようやく声をかけた。断られたら、このバーに来るのはもうやめよう。それくらいの覚悟だった。
「いいわよ」
その答えを聞いたとき、どれほど舞い上がったことか。そして、じかに触れた彼女は想像をはるかに超えていた。
もう、もどれない。
そう思った。彼女は特別な存在なのだ。彼女のいない世界なんて考えられない。それほどに強い想いが芽生えた。
もうほかの女は目に入らない。彼女しか目に入らない。彼女がいなければ帰る。何週間かに一度、義務のようにかすかに続いていた恵子との関係もついに途絶えた。それでよかった。自分のすべては梨花のものだと思ったから。
日付が変わる前に自分の元を去る彼女には、帰るべき場所があるのかもしれない。それでもいい。このひとときが、自分を支える
透は、いい夫と父親の仮面をかぶりつづけることを選んだ。
「だけどね」
と、恵子は続けた。
「夫のそんな顔をみるのはもういやなの。嫉妬する自分もいや。そんなことから、わたしを開放すると思ってよ」
すまない、といいそうになって口をつぐんだ。あやまってはいけない。わかってはいても、嘘は最後までつき通さないと。
恵子のいうとおりマンションだけを譲って、透はひとり目黒川沿いの賃貸マンションへ引っ越した。
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