常務の権力

文字数 1,437文字



 次の日から、何事もなかったようにふたりの生活は続いた。できれば寝室も分けたかったけれど、それは2LDKの住宅事情ではゆるされなかった。ツインベッドにしていてよかったとつくづく思った。
 梨花の宣言通りに、圭太が触れてくることはなく、日常の会話をするだけで、例の件について話すこともなかった。
 ひと月たったとき、圭太がいった。
「離婚してほしい」
「始末をつけるのじゃなかったの」
 梨花の声は冷酷だ。
「すまない。会社も辞める」
「パパの顔に泥を塗るのね」
「お義父さんにもちゃんと話してくる」
「ゆるされるかしらね」
「誠心誠意話してくるよ」
「離婚して会社も辞めてどうするの」
 圭太は口をつぐむ。
「愛人といっしょになるの」
「……愛人って」
「そうでしょ。世間では愛人というのよ」
 圭太はひどく傷ついた顔をした。またそうやって犠牲者ぶる。純愛だとでも思っているのだろうか。梨花を悪者にして。
「わたしはゆるさないから」
 そういうと、圭太は驚いたように顔をあげた。まるで、梨花が素直に離婚に応じるとでも思っていたように。
「あたりまえでしょう。あそこまでして結婚したのよ。そんなに簡単に離婚できるわけないじゃない」
「きみだって、春人くんとやりなおせるじゃないか」
 バカなのか。父はこの男のどこを見込んだのだろう。
「春人には恋人がいるわ」
 そういうと、圭太は息をのんだ。
「連絡とっていたのか」
 そこか。
「この前、美術展で見かけたのよ。あなたが電話している間にね」
 圭太はぐっとことばに詰まってしまった。
「だいたい、なぜわたしをすてて自分だけしあわせになろうとしてるのよ。ゆるすわけないでしょう。あなたの妻は一生わたしよ」
 そういい捨てると、圭太の顔には絶望がうかんだ。

 翌週、梨花は父に呼ばれた。あの次の日、圭太は梨花の実家に行って離婚と退職を願い出た。父の返事は保留中だ。仕事を終えて実家に行くと、母はまた手の込んだ料理を山のように作っていた。ちらし寿司、グラタン、タコのサラダ、からあげ。グラタンはホワイトソースも手作り。
「ちゃんとお料理作って、圭太さんに食べさせてたの?」
 まるで梨花がちゃんと家事をしなかったから浮気されたみたいにいう。梨花は思わず顔をしかめた。
「離婚はしないそうだね」
 父がいった。
「しないわよ。なぜ敵に塩を送らなきゃならないの」
「なるほど。このままの生活を送るのはつらくはないのか」
「なに? 他人事みたいに。ぜんぶパパの人選ミスじゃない」
「うん、そうだな。すまなかった。悪かったよ、ほんとうに。道を踏み外すようなやつじゃなかったんだがな」
「相手の女がよっぽど魅力的なのね。男を惑わすくらい」
 父は額に手をやって、ふうっと息を吐いた。
「相手の女を異動させようか。子会社に出向させることもできる」
 会社の人間だったのか。梨花はふん、と鼻を鳴らした。
「まさか。ふたりいっしょに仕事をさせてやりなさいよ。なかよくね」
 父は、ええ? と目をむいた。
「いいのか、それで」
「自分たちがしでかした事の重大さを、身にしみて感じればいいんだわ」
「そんな話をしていると、ごはんがまずくなっちゃうわ。もうやめましょう」
 割って入った母に、あんただって、圭太を推してたじゃないか。と梨花は文句をいいたくなる。機嫌はどんどん悪くなっていく。
「このことに関しては、梨花の気持を尊重するよ」
 父のひとことで、圭太の処遇は決まった。この先、家でも会社でも冷遇される。ざまあみろ。 梨花はふんっと鼻で笑った。
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