文字数 1,157文字
それからひと月もすると、松島常務退任と、次の常務が透であるという噂が社内で流れはじめた。もちろん取締役会で承認されるまでは極秘であるから、透もなかなか面倒な立場になってしまった。ひそひそ話も聞こえてくるし、ほんとうですかと、大胆に聞いてくる
しらを切りとおすしかないな。あきらめ半分でいたとき、松島常務の秘書から連絡があった。内線電話で、日時と場所を告げられた。だれにもいわずに来いということなのだろうな。
当日行ってみれば、そこは神楽坂の割烹だった。こじんまりとはしているものの、いかにも店主のこだわりが強そうな店構えである。
うーん。
いまだに、ジョッキのビールと枝豆、焼き鳥のほうが落ち着く。
が、そうもいっていられないのだろうな。取締役ともなれば、セキュリティの問題もあるし、聞かれて困る話もごまんとあるのだろう。小さくため息をつくと、飛び石を踏んで引き戸を開けた。
粋なしつらえの店の中には、カウンターと小あがり。カウンターではすでに三人ばかりのサラリーマンが店構えに似合う品のよさで飲みはじめている。そのカウンターのいちばん手前で、見覚えのある顔がお茶をすすっていた。
「ごぶさたしています」
立ち上がって礼をする八木に透はまたしてもため息をついた。
「あなたですか……」
「これも引継ぎの一環ですので」
八木は、にやりと笑った。
梨花という弱みを握られているせいか、どうも八木には見下されているような気がする。
案内しますと、二階に通される。通された個室にはすでに、三十少し過ぎたくらいの若い男が神妙な
「総務部の加藤です。僕の優秀な部下です。野田常務には彼についてもらいます」
八木が紹介した。用件はこれか。
「加藤です。よろしくお願いいたします」
うん、よろしく。と握手を交わす。そうか、常務には自動的にこういう役割の人間がつくのだな。いわれるままに、加藤のとなりに腰をおろす。
若いな、と思う。自分が梨花と出会ったのもこのくらいの年だったろうか。そんな思いを見透かしてかしないでか、八木がいった。
「あのことも、伝えておきましたから。もちろん松島常務には内緒で」
口に含んだお茶を吹きそうになった。ひとしきりむせた後、透は恨めし気に八木をにらむ。
「連絡が取れないのなら、引き継ぐ意味はないでしょう」
八木はそれには答えなかった。
「元気ですよ」
とだけいった。
「そうですか」
透もそれだけ答えた。
松島常務の退任と、透の常務就任が発表されたのは、それから一か月後だった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
(ログインが必要です)