常務就任

文字数 1,643文字


 わかってしまった今となっては、顔を見ただけで苦いものがこみ上げる。俺の梨花を傷つけたやつが許せない。もっとも部長となってからは、顔を合わせる機会もめっきり減った。ただ離婚したとは聞いていないから、結婚生活は続いているのだろう。それがなお許せない。
 いっそ八木を締め上げて全部吐かせようかと過激な考えにも陥りそうになる。そんなことをしても無駄なのはわかってはいるが。八木だってだてに松島常務の手足となって働いてきたわけではない。透がすこしくらい脅したところで、屁とも思わないだろう。のらりくらりと笑われるのが関の山だ。
 表面上はなにも起きていない。完全に手詰まりだった。

 ピリリリ。ピリリリ。
 透のデスクの電話が鳴った。はい、と受話器を取った。
「野田部長ですか」
「はい。そうです」
「こちら松島常務の秘書の佐川です」
 ん? 松島常務の秘書?
「お忙しいところ申し訳ないのですが、常務室までご足労願いたいのですが」
 緊張が走る。まさか、梨花のことではあるまいな。
「わかりました。すぐにうかがいます」
 つとめて平静にそういって、切れた受話器をじっと見つめる。
 なんだろう。常務にはねぎらいや励ましのことばをかけてもらったことはある。あとは会議でいっしょになったことが何度か。それ以上の接点は特にないはずだ。梨花とのことがバレているはずもない。たぶん。おそらく。きっと。不安がむくむくと頭をもたげてくる。
 散らかっているデスクの上を、簡単にまとめて席を立つ。手近にいる部下に、松島常務のところに行ってくると告げて財務部を出た。
 この本社ビルの上部ツーフロアが、社長はじめ重役の部屋になっている。一般社員が来ることはまずない。透も財務部長になってから何度か呼ばれて来た程度だ。
 エレベーターが開く。いつ来ても緊張する。このフロアは、すべての作りがちがう。深い赤のカーペット敷きの廊下。両側にならぶ重厚な木製ドア。創業百年を超える、いや発端を江戸時代にまでさかのぼる歴史がここにある。
 部長とはいえ、まだまだ一般社員と大した違いがないのだなと実感する。しかも用件がわからないまま、梨花の父、いや松島常務に呼ばれたのだ。背中に嫌な汗がにじむ。
 秘書室で用件を告げる。話は通っていたようですぐに松島常務の部屋へ案内された。
「ああ、わざわざ来てもらって悪いね」
 常務は機嫌がよさそうだ。うながされるままにソファに腰かけると、秘書がコーヒーを出してくれる。
「聞いてもらいたい話があってね」
 デスクチェアの背もたれに身を預け、軽く左右に揺れながら松島常務は話を続ける。
「わたしはそろそろ後進に道を譲ろうと思うんだ」
「えっ?」
 まったく思ってもいない話だった。
「去年から息子家族が同居していてね」
 梨花の兄か弟か。
「隠居しておじいちゃんに専念しようと思ってね」
 では梨花はやはりいまだに古川といっしょなのだ。握った拳に力がこもる。でもその話が透になんの関係があるというのだ。
「次の常務には、きみを推薦しようと思う」
「は?」
 おどろいて顔を上げる。思いもよらない話だった。
「わたしですか?」
「そうだ。まだ内々の話だが、社長もほかの常務も賛成してくれているよ。受けてくれるよね」
「……はい」
 呆然としたまま、うっかりはいといってしまった。
「うん、よかった。引き受けてくれると思ったよ」
「いや! 待ってください。ほかにも人材はいるでしょう」
 透はあわてた。
「いやあ、取締役会でもきみで意見は一致しているよ」
 ありがたい話ではあるが荷が重い。
 ……待てよ。
 松島常務の推薦となれば、切っても切れない太いパイプができる。それはやがて梨花にもつながるのではないだろうか。
 しかも、秘書のみなさんは梨花の顧客だったはず。直接話を聞く、いいチャンスだ。公私混同も甚だしいが、常務を引き受けるなら、それぐらいの特権はあってもいいはずだ。
「わかりました。ご期待にそえるよう精進いたします」
 そういうと、松島常務は満足げにうなづいた。
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