呪い

文字数 1,311文字



「ぜんぶ無駄だったの? わたしのしたことはぜんぶ無駄だったの?」
 そんなことはない。そんなことはないんだ。思っていることがうまくことばにならない。
「梨花、ごめん」
 梨花は手にしたタオルを圭太にむかってバシッとたたきつけた。それを片手で易々(やすやす)といなされたのがまた憎たらしい。
「いい訳ぐらいしなさいよっ。そんなに簡単にわたしを切り捨てるの? そんなに簡単にわたしを捨ててその女をとるの? わたしも春人もズタズタに切り裂いて強奪したくせに! だったら……」
 一気にまくし立てて、梨花はゼイゼイと息をする。
「だったら、わたしってなに?」
 圭太の顔が苦渋に歪む。
「……ごめん」
 蚊のなくような声でつぶやいた。
「ふざけるな! 自分ばっかり犠牲者面して! わたしからしたら、あんたこそが加害者よ!」
 加害者呼ばわりされた圭太は顔色をなくす。
「ゆるさない。ゆるさないから」
 梨花を勝手にほうり出した圭太も、圭太にそうさせた相手の女も。この憎しみの先にあるものが地獄ならば、喜んで落ちてやろう。あんたたちを引きずりこんでやる。あんたたちを掴んだこの手は決して離さない。それが修羅の道というなら望むところだ。わたしたちの未来に平穏はない。
 さぞやみっともないだろうな、と梨花は思う。涙と鼻水と溶けたメイクでどろどろで。ヒステリックにわめきたてて。
 梨花はギリッと圭太をにらみつける。これがあんたが地獄に落とした女の顔だ。目に焼き付けるがいい。あんたの大事な女の笑顔と、わたしの醜い般若の顔は表裏一体だ。
 この先、あんたが楽しいと思ったら、うれしいと思ったら、しあわせだと思ったら、かならず思い出せ。その足で踏みつけているのはわたしの背中だ。あんたの足の下で、わたしは辛さや苦しさや悔しさの渦巻いた泥の海で溺れているのだ。
 あんたの女が笑ったら、その裏でわたしが苦痛にのたうち回っているのだとかならず思い出せ。
 梨花は圭太に呪いをかけた。

 こんなはずじゃなかった。いまごろ、おいしいイタリアンを食べているはずだったのに。
 春人も失ってしまった。心の()りどころだったのに。いまでも梨花のことを想ってくれているんじゃないかとかすかな期待があったのだ。そんなわけない。二年もたったのだ。春人に新しい彼女がいてもおかしくない。勝手な期待をしていた自分が悪い。
「だいなしよ。ぜんぶだいなしよ。」
 いわれればいわれるほど、圭太の中に罪悪感が膨らんでいく。
「あんたさえ、いなければ」
 自分が逃げてしまった自覚がある。自己嫌悪でいっぱいだ。もう梨花に対する負い目しかない。
「ごめん、始末はつけるから」
「うそはいいわ。できないくせに」
 あんな笑顔をむける相手を、切れるわけがない。
 ああ、もう無理なんだなあと思った。おたがいに自分が犠牲者だと思っている。その犠牲の代償が春人であり、圭太の愛人だ。おたがいを加害者に見立てて、自分を正当化する。なにもいえなくなってしまった圭太をにらむと、圭太はそれに耐えられずに目をそらした。ほら、またごまかす。もういい。
 怒りが突き抜けた梨花の瞳は、平坦で恐ろしいほど静かだった。
「あんたなんか大嫌い。二度とわたしにさわらないで」
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