文字数 1,408文字


「どうやって生活していく?」
「そこそこ、収入はあるのよ。生徒さんもいるし、注文もあるし」
 そんなに前から考えていたのか。フラワーアレンジメントを習うといい出したのは、十数年ほど前、長女が中学生のころだった。それがいつの間にか講師をするようになり、自宅で教室を開くようになった。毎週火曜日と金曜日、午前と午後の二回。
 透の出勤と被ることもある。自宅マンションに迎えの車が到着すると、運転手から連絡が来る。ある程度身支度をととのえ、じゃまにならないように寝室でメールやウェブの記事をチェックしていた透が、ジャケットを羽織ってリビングに出ると、すでに教室が始まっていたりするのだ。花を広げる生徒たちに、にこやかにおはようございますとあいさつをして玄関にむかう。
 透にとってはなかなかに苦痛な場面ではあるが、生徒の大半の占める奥様方には好評なのだ。
「さすが、重役。すてきだわ」
「ダンディよね」
「堂々としてりっぱね」
 背中に誉めことばがよせられるが、もちろん透にはそんなつもりは一切ない。自分への賛辞は梨花ひとりで十分なのだが。
 それがいいアシストになったのかはわからないが、生徒は増え、プレゼントなどのアレンジメントの注文も受けるようになった。SNSでもまあまあ人気があるらしい。
「だから心配はいらないわ。そこまであなたの世話にもなりたくないし」
 恵子はそういった。
「ただ、このマンションだけ譲ってほしいの。教室を移動したくないから。お金はいらない」
 そこまでいわれてしまっては、反論の余地もない。
 これで、梨花を迎えにいけるだろうか。
 ふっと、そう思った。
 恵子がくすりと笑った。
「なに?」
 怪訝(けげん)に思った透が聞くと
「そういう顔。いままでにも何回も見たわ」
 どういう顔だ。見透かされたのかと、どきりとする。
「だれか想っている人がいるんでしょ」
 うまく隠しているつもりでいたのに。否定も肯定もできない。いや、否定しない時点で、うん、といったようなものだ。
「そういうの、わかるのよ。女の勘?」
 透はだまるしかない。
「いいのよ、もう。あなたは家庭を優先したし、子どもたちにとってはいい父親だったわ」
 
 透が恵子との決定的なすれ違いに気づいたときには、もう手遅れだった。いや、気づいた時点で折り合う(すべ)はなかったのだ。
 学生時代から付き合ってきた恵子と、結婚したのは同期の中でも早い方だったと思う。結婚から二年目に長女が生まれ、四年目に次女が生まれた。
 出産後も仕事を続ける恵子は、保育所と会社の往復で手いっぱいだった。透は自分にできることならと、精一杯のことをしたつもりだった。
 迎えの時間に間に合わないからかわりに行ってくれないかと連絡をもらった。けれど透もそのときは若手から中堅への過渡期で、途中で仕事を抜けるには難しい時期だったのだ。
 三回目に無理だと断ってから、ぱたりとその電話は来なくなった。恵子も落ち着いたのだな、と勝手に思い込んでいた。そうではなかった。透の協力をあきらめたのだった。
 それでなくてもまだ一才になるかならないかの長女は、感染症にかかりやすくすぐに熱を出して、保育所から迎えの要請が来ていたのだ。
 恵子は企画開発の第一線から、定時で帰れる事務職に移動しひとりで育児を続けていたのだった。透だって育児に協力しているつもりだった。それはあくまでも、「つもり」。恵子にとっては、なんの足しにもなっていなかった。
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