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 家についたのは七時半を回ったころだった。梨花は夕食の準備をしていた。圭太はもらった封筒を出して見せた。
「お義父さんから美術展のチケットをもらったんだ」
「美術展? わざわざ会社で?」
 ああ、梨花がいったのではなかったか。では、どこから? 彼女と会うのはすこし控えたほうがいいかもしれない、と圭太は思う。
「ああ、たまたま会ってね」
 手を拭いた梨花は、チケットを見る。アールヌーボーの展覧会だった。アールヌーボーは好きだ。ミュシャとかロートレックとか。
「いっしょに行こう。次の休みはいつ?」
 圭太とふたりで出かけるのは気が進まないが、なにか父の思惑があるのかもしれない。父も圭太の不貞に気づいたのだろうか。
「来週なら土曜日が休みよ」
「うん、わかった。楽しみにしているよ」
 うそでしょう。父からもらったのでなければ、愛人といったのでしょう。返事もしないで目をそらせた。
 様子をみ始めてから半年がたった。いまだ圭太の真意は測りかねている。遊びなのか本気なのか。相手が会社の人間なのか、ほかの人間なのか。結婚する前からなのか、後からなのか。梨花のシフトが不定期だから、いつ会っているのかも把握できていない。たぶん梨花が仕事に行っている間に会っているのだとは思うが。
 いっそ仕事を辞めて、一日中家で見張ってやろうかと思う。そんなことをしても、自分が惨めになるだけだ、とも思う。
 だからといって、調査を頼んで事実を明るみに出してしまうのもこわかった。けっきょく、何の手も打てずに時間だけがたっていく。

 美術展はよかった。梨花は時間をかけてアールヌーボーを堪能した。午後の遅い時間に家を出て、見終わったらディナーに行こうと圭太は誘った。
 おいしいイタリアンの店があるんだよ、と圭太はいった。まさか愛人と同じ店に連れていくんじゃないだろうな。いまの梨花はすべてが疑心暗鬼である。それにディナーだって、ただのご機嫌取りと思ってしまう。
 まあ、イタリアンと美術展に罪はない。と梨花はきょうのお出かけを楽しむことにした。
 見終わったところまではよかったのだ。圭太は手洗いに行ったきりなかなか戻ってこない。まさか妻をほうり出して愛人に電話でもしているのではなかろうな。せっかく楽しんでいた梨花はまた疑心暗鬼にとらわれてしまった。
 しかたがない、グッズでも見るかとショップの中をひとりでまわる。ずらりと並んだポストカードの前で足を止める。ロートレックを三枚ほどフレームに入れて壁に飾ったら素敵じゃないか。ムーランルージュでそろえたらおしゃれだな。そう思って手をのばした。
 横から同じように伸びた手があった。ピクリと動きを止めた。この手は見覚えがある。なつかしい、愛しい手。パッととなりを見上げた。息が止まるかと思った。
 春人。
 声も出なかった。春人も目を見開いてぼうぜんと立ちつくしていた。周囲のざわめきが次第に遠のいていく。思わず呼びかけようと口を開いたとき、
「春人」
 いっしゅん早く後ろから呼ぶ声があった。かわいらしい女の声。春人の肩がびくりと跳ねた。
 ああ、そうか。彼女といっしょなのか。奥さんかもしれない。あれから二年もたつのだからそれも当然だ。ずっと大好きだよといったのに。なんだか裏切られた気がした。
 梨花はくるりと背を向けてその場を離れた。彼女の顔なんて見たくない。どうせもう声もかけられないのだ。春人だって追いかけては来ない。動揺を隠して圭太を探す。妻をほっぽりだすからこんなことになるのだ。
 そして、見つけた。壁際で電話している圭太を。
 梨花はその場に凍りつく。
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