第57話

文字数 2,655文字

富永(とみなが)さん、葉山さんなんだけどーー」

「はい」

「本人の強い希望もあって、訪問看護、介護使ってご自宅で過ごされてたんだけど、メインで面倒診ておられた妹さんが体調崩されてしまって、入院になったの。
体調回復されたらまたご自宅に連れて帰りたいーーっておっしゃられてるんだけど、もうターミナル時期だし、今回入院されたらそのまま最期を迎えられることになるんじゃないかって院長がーー」

「そうですかーー。
あの、息子さんは納得されてるんですか?」

「そうなの、寛人(ひろと)くんね。
確か今年高校入学したんじゃないかな。
御本人、妹さん、寛人くんとで治療方針について話し合われてたらいいんだけどーー」

「その辺のこと聞ける範囲でいいので、アナムネの時に確認しといてくれる?」

「わかりました」

 葉山さんは確か下のお名前は真弓さんといって、血液の癌で何度も入退院を繰り返している40代中頃の女性患者さんです。
 息子さんと二人暮らしで、真弓さんが病気を患われてからは、近くに住む妹さんが真弓さんや寛人くんの手助けをしてくれているようです。
 4、5年前に真弓さんが初めて入院してきた時の寛人くんは、まだ小学生でした。
 スタッフから休憩室のお菓子をもらって嬉しそうに食べていた姿を懐かしく思い出します。      
 その寛人くんも今年から高校生なんですねーー。
 
 真弓さんは、きっちりとした性格で、自身の病気や現在の病状について全て把握し、納得した上でないと治療を受けないタイプの人です。
 公務員をされていたそうで、仕事柄そんな性格になったのかなあと笑ってお話していた時もありました。
 なあなあの関係を好まず、親しいスタッフにも疑問に思ったことや、おかしいと思ったことは迷わずに意見できるスタンスをお持ちです。
 日向(ひな)さんや裕子(ゆうこ)さんなど新人スタッフは、随分真弓さんに鍛えられたはずですよ。

 その真弓さんが今回の入院が最期になるかもしれないなんてーー。

「中尾師長、お話中すいません」

 ノックもせず面談室に勢いよく飛び込んできたのは裕子さんです。

桜川(さくらがわ)さん、どうしたの?」

「605の三橋さんが先ほどから家帰るって大騒ぎしててーー。
東主任が対応してくれてるんですけど、他の病室にまで二人の声が響きわたってて、病棟の患者さんが様子見に廊下に出てきててーー」
 
「あーー、また三橋さんーー。
分かった。すぐ行くわ。
それにしてもとんちゃんまで興奮して大きな声出すなんて珍しいわね。
どうしたんだろーー」

 中尾師長は日向さんに「じゃあ、葉山さんの件頼んだわよ」と言うや否や早足で面談室を飛び出して行きました。


 中尾師長に続いて廊下へ出ると、確かに男性の怒鳴り合う声とそれに応える東主任の大きな声が聞こえます。
 各病室からは声の方向を確かめるようにキョロキョロする患者さんも何人か見受けられます。
 中尾師長は、そんな患者さん一人一人に対し、大丈夫ですよーーなどと、声をかけながら早足に605号室に向かいます。

「ーーーーー言ってるじゃないですか!
まだ退院許可おりてないんですよ!」

「うるさい!
看護師ごときが俺につべこべ意見するんじゃない!
本当にダメかどうか自分で聞くから医者を呼んでこい!」

「だからーー、主治医の古和(こわ)先生は、今日は検査担当で病棟にはいないって何度も言ってるじゃなーー」

「あらあらーー、三橋さん。
どうされましたか?
大きな声出されてーー。
だいぶお元気になられたのは嬉しいですけど、他の患者さんが何事かとビックリしてますよーー」

「師長ーー。
すいません」

「あんたが師長か。
こいつに何回言っても話が通じないから困っていたところだ」

「だからーー」

「東主任、午後からの検査について能見(のうみ)先生が打ち合わせしたいから至急来てほしいって。
すぐ行ってくれる?」

「ーーーーはい」

 東主任はまだ何か言いたそうでしたが、中尾師長の声に出さない(大丈夫だから)の言葉に頷くと、病室を後にしました。
 が、病室の扉を閉める直前に言った、三橋さんの声はハッキリと聞こえたようです。

「あんな気の強い女の旦那は可哀想だなーー」




「やっぱりここにいたんだーー」

 屋上にぽつんと置かれたベンチに座って街並みを眺めている東主任の後ろ姿を見つけた中尾師長がつぶやきました。
 中尾師長はドア近くの自動販売機で缶コーヒーを二つ買うと、あちちと言いながら早足でベンチまで駆け寄り、一つを東主任にポンと投げました。

「わっ!
ビックリしたーー!
師長ーー」

「ここだと思ったーー」

「えっ?」

「おしるこの缶売ってるのここの自販機だけだもの」

 東主任の手元には既に空になったおしるこの缶がしっかりと握られています。
 思い詰めたような顔をしていた東主任の顔がふっと緩んだように見えました。

「私がとんちゃんのプリセプでさー。
とんちゃんが立て続けにやらかして師長から大目玉食らって、私も一緒に叱られた時覚えてる?」

「ええーー。
勿論です。
あの時、休憩中一人でここで泣いてた時、師長がこんな時は甘いものが一番! っておしるこ渡してくれましたよねーー。
あれから私、落ち込んだ時とか疲れた時によくここ来ておしるこ飲んでます」

「うん、知ってる。
しかしなつかしいわよねーー。
あの時二人で黙って泣きながらおしるこ飲んだわよね。
それが今や私が師長でとんちゃんが主任だなんて、そりゃ歳も取るわね」

 アハハハハーーーー。

 賑やかな二人の笑い声が屋上に干されたタオルと一緒に風になびきます。

「先程はすいませんでした」

「うううん、いいのよ。
あんな時のために私がいるんだからーー」

「それより三橋さんの言ったこと、気にしなくていいからーー」

「え?」

「聞こえてたんでしょ?
最後に言ってたことーー」

「ーーーー」

「何かあったの?
最近少しナーバスになってるみたいな気がしてたの。
古和先生と喧嘩したとかーーってそれはないか。
今朝見かけた時も古和先生ニコニコしてたしーー」

「んーーーー。
特に何かあったってわけじゃないんです。
けど、ここで働いて色んな患者さん、家族さんと接してると、時々、新しく自分で家族を持つことが怖くなることがあってーー。
マリッジブルーってやつだと思うんですけどーー」

「そうーー。
三橋さん見てたら誰だってそう思うわねーー。
でもね、あの人意外と愛妻家だと思うんだーー」

「えーー、どこがですか!?
私あの人の病室行く度に結婚したくなくなるんですけどーー」

 わーーひどいーー、アハハハハーーーー。

 良かったーー。
 中尾師長のおかげで東主任の気持ちが少し楽になったみたいですね。
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